2010年6月21日月曜日

寄留人(きりゅうじん)について

 口石に家を新築して引っ越してきた当所、「寄留人」という言葉の響きに違和感を何かしら感じていました。家内は自分たちが言われているものと勘違いしていました。学生時代の熊本の下宿の近辺では、学生のことを「書生」さんと呼ぶお年寄りや子供たちがいました。その書生という言葉の響きには学生を大切に扱っている温かみを感じました。しかし、寄留人とか宿借りさんという呼び方にはよそ者、すぐ出ていく間借り人という差別語的な感じがしました。

 町内会長になって口石町内会の引き継ぎ書類の中に、権利証や契約書類を綴じたものがありました。詳しくは見ていなかったので、先日最後までめくっていったら、「寄留証綴」というのが見つかりました。


 上の写真が表紙で、鉄のホッチキスで留められていたところが錆付いています。

 次の写真は最初のもので、明治40年に達筆な毛筆の候文で書かれたものです。全部で14枚の証文が残っています。

 これは山永家に寄留していた竹内竹蔵さんが書かれたものです。竹内隆美さん宅のお墓に入っておられるとのことで、親戚には間違いないけど直系ではなさそうだとの話で今となってはもうわからないとのことでした。

 上の写真が最後に書かれた昭和2年の「寄留証」です。昭和2年の議事録で尾崎家に寄留する産婆さんの寄留金を半額とする旨の記録があるのでこの人に一致します。
 寄留人は寄留金を区にも払わなければなりません。昭和2年の会計記録によると寄留8名分30円となていて、1名は半額とする記事もあるので、寄留金は1人あて4円となります。一般の区民の区割(今でいう町内会費) は米で1人当たり5升、76人分98円80銭とあります。すると1人当たり1円30銭となります。米5升の金額も1円30銭ということになります。何か釈然としないものがありますが、寄留人が区民よりも3倍以上の金額を出していた事になります。家主には家賃を払っていたでしょうし、身元引受人との連名で「区の規約を守り、違反したときはいかような処分をされようとかまいません」と候文の証文まで入れさせられていました。
 今思えばかなりの差別的扱いではないでしょうか。戦前はこんなことが当たり前だったのかもしれませんね。その反動か、私が移り住んだ昭和50年ごろは、借家住まいの人は出不足金は家持ちの人の半額と決められていました。その後変更になり、現在は一律に同じ金額になっています。
 口石は江戸時代の武士階級の人もいますが少なく、塩田作りのため四国は阿波の国からとか、忠臣蔵でおなじみの赤穂から移住の人がやって来たとの言い伝えがありますが、純然たる稲作農家中心の集落でした。最近は少し変わって、佐世保市のベッドタウンとして農地を宅地化して、移り住む人が増えてきたところです。


0 件のコメント:

コメントを投稿