
ここに第十三高等小学校が出来た頃には、当時の小学生は、国道などはなく、平戸街道から分かれて出来たばかりのこの県道を通って通学していたのでしょう。




口石の中心地、閉店した酒屋の所です。左へ行けば木場です。平戸街道もここを通っていました。木場炭坑のトロッコ道にもなりました。旧県道はもう少し国道と同じ道を進みます。この地点は平戸街道、旧県道、現在の国道さらにはトロッコ道まで重なり合う地点です。
日本の西の端、長崎県は佐々町口石にある田舎の・いなかのお話です
口石の中心地、閉店した酒屋の所です。左へ行けば木場です。平戸街道もここを通っていました。木場炭坑のトロッコ道にもなりました。旧県道はもう少し国道と同じ道を進みます。この地点は平戸街道、旧県道、現在の国道さらにはトロッコ道まで重なり合う地点です。
上の地図の赤い縦の線が現在の国道204号線です。平戸街道(点線の道)は口石から半坂道 を通って山の中を通っています。昔の武士が考えたのは、防衛のためとのことで、谷間の道は通らずに、尾根筋の見通しがきく所を通っています。
旧県道は明治20年に着工して21年に開通したと佐々町の記録にはあります。黒い実線で示したものが当時、最初に作られた県道です。安上がりに早く作ろうと地形に沿って曲がりくねっていて、旧街道も利用しています。その後、改良されて現在の国道へと移っていきます。 口石の入り口、新町の交差点です。右側の道路が国道で、真ん中の細い道が旧県道です。道幅は2間(3.7M)だったそうですから平戸街道の1間半(2.7M)からすれば少し広くなりました。
ここは、平戸街道を利用しています。この分かれ道で左へまっすぐ行けば正福寺へ行きます(平戸街道)。県道は右へ曲がって口石小学校の校門前に向かいます。
途中の橋は「順手橋」じゅんでばしと読むのでしょうが、地元の人の発音では「ジンデバシ」とも聞こえます。
上の写真は佐々町郷土史のものです。旧県道の「須手橋」とありますが「順手橋」が正しいようです。当時の橋は石橋だったのでしょうか。
現在は、きれいに護岸工事もされた順手川と順手橋、そして農業用水の取水のための堰も見えます。新しい住宅と舗装道路ばかりですが、少し前までは田んぼばかりの所でした。
以上、平戸街道(当時の人は平戸往還と言っていたようですが)の道筋については、毎月ウォーキングを行っている「平戸街道ネットワークの会」の資料にもとづいて書きました。佐々のお年寄りの中には、別の道を指摘される方もおられます。あの木は一里塚の木ではないと言われる方も聞いたことがあります。また、江戸時代は200年以上も続いたのですから、その間には道筋も移り変わったことも考えられます。今となっては確実な事は分からないのではないでしょうか。
私が現職の時、家庭訪問で尋ねた事がある家で、そのとき大きな木がある所と聞いていて、カーナビなどなかったけどすぐに分かったものでした。初夏の写真では鮮やかな新緑がまぶしいほど勢いがありました。 このあたりの道は石炭産業が盛んなころは、レールが敷かれ石炭を積んだトロッコを海岸まで人力で運んでいたところです。上の写真の龍開(りゅうがい)の標識の所で木場道から分かれて、半坂道へと入っていきます。
ここに架かっている橋は森の木橋ですが、当時は飛び石だったのでしょう。