前回、耕地整理の堤を取り上げたので、今回から数回に分けて溜池(地元では堤と呼ぶことが多い)について書いていきます。写真を撮るときになってしまったと思いました。この夏場では背の高い雑草に覆われて近づけないところもあります。溜池を利用しなくなった証拠です。場合によっては冬場に写真を撮り直して差し替えることも考えています。
最初の写真は「平田溜池」です。普通ヒラタノツツミと呼んでいますが、地図で平田溜池となっているのでそう書くことにしました。口石ではもちろんですが、佐々町でも最も大きな溜池と言えるでしょう。しかし、最近では水深が浅くなり、数年前に浚渫工事がされましたが、貯水量が最も多いとはいえないかもしれません。今では夏場になっても泳ぐ人はいません、水面いっぱいに水草が茂っていてとても入れません。プールがなかった頃には子供たちの立派なプールだったようです。
この池を見降ろす高台に新しく住宅団地が作られましたが、日当たりが良く、人気が高くすぐに全戸新築され、若い世代の人たちが移り住んできました。この池では魚釣りが盛んに行われていました。釣り好きな老人がヘラブナを放流してしばらくしてから見事なヘラブナが釣れるようになりました。その老人はのんびり座りヘラブナを釣っても、ひと眺めしたらリリースしていました。その後平田の池ではブラックバスが釣れるとの情報が知れ渡り、大勢の釣り人がやってくるようになりました。近くの小中学生は自転車で、大人は自動車で、中にはボートを積んできて舟から釣る人もいました。その騒ぎで農家の人は迷惑して「堤体保護のため釣り禁止」の看板を建てたりしました。それも長くは続きませんでした。水草の繁殖が人間の争いをやめさせました。
この池にこんもりとした丸い山が二つ写っています。これを女王卑弥呼の墓と考えてみたい思ったりしました。邪馬台国論争が盛んに行われていた頃、九州説をとる人の中にも長崎県では島原説、彼杵説さらに相浦説を唱える人がいます。ならば「口石説」をとるならばここが面白いと思ったからです。
この池には「平田第二溜池」があります。使わなくなって何年にもなるらしく深い草丈に阻まれてこれ以上は近づくことはできませんでした。
木場川からの取水口です。太田橋の約150メートルばかり下流に堰を作り、上の写真左側の水路に導き入れています。この水利権は堰を越える水がある時だけしか取水できない事になっているとのことです。
ホテルフェイスの前でトンネルの中に水は潜っていきます。町道木場線とホテルの取りつけ道路の下、長さ約70メートルのトンネルです。堀切にして土盛りで埋めることも考えられますが、この入り口の所では高さ1メートルばかりは石で塞いであり、人間1人が作業するためのものと思われます。
トンネルの出口です。水が貯水池にたまっています。北松浦郡一帯では明治の頃から石炭の採掘がされていて、炭坑の坑道を掘る職人はいたのですから、この水路工事にトンネルを掘るのはたやすいことだったのかもしれません。
トンネル出口の上から見たところです。こちらから見ればかなりの高さがあり、とても堀切で水路を作ろうとは思われません。
ため池(耕地整理の堤)の堤防の上から見た写真です。右奥がトンネル出口の取水口です。ここから見れば、この池に水がたまるのはなぜだろうと思うぐらい雨水の流れ口が考えられないところです。子供の頃、耕地整理の堤でよく泳いでいたという人の話では、近くの平田の堤と比べてもここはかなり深かったとのことですから小さいながらも貯水量は十分あったようです。
堤からの水は土管を使って、田んぼへと配られるのですが、平田の墓地の所(写真の右)ではかなり低くなり、ここから高い田んぼへと上がっていきます。この土管はよく破れて補修に手間と金がかかったそうですが、一部に土管のままの所もあるそうですが、この辺りはビニールパイプを使いバルブの開閉で写真のように放水する事が出来るようになりました。数年前までは、木栓に布を巻いたものを打ち込んでいました。
このサイフォンの原理で、用水を送るのは、熊本県の通潤橋があまりにも有名で口石のものは見劣りはしますが、立派に役目を果たしています。
最初の田んぼの所(1番高いところの田んぼ)まで来た水は溜め桝から3方向へ田んぼの面積に応じて水の分配が行われている様子が分かります。砂岩に刻まれた水路の幅が、中央:左:右では1:2:4となっています。

右に小さい橋が架かっていますが、この農業用水路を渡って国道の方へ旧県道は通じていました。国道は田んぼからするとかなり高いところに作られましたが、旧県道は低いところで木場川を渡っていました。
上の写真は現在の妙見橋で、その上を横切るように高速道路の橋が架かりました。旧県道の妙見橋は現在のものより少し下流にありました。
国道を作る時、直線的なコースを取り、芳の浦の峠を越えるためこの辺りはかなりかさ上げが行われました。したがって、新しい妙見橋は橋桁が高いものになりました。そこに終戦後の一時期ホームレスが住み着き、ゼンモン橋と言うようになったそうです。今でも妙見橋と言わずにゼンモン橋と言う人もかなりいます。






口石の入り口、新町の交差点です。右側の道路が国道で、真ん中の細い道が旧県道です。道幅は2間(3.7M)だったそうですから平戸街道の1間半(2.7M)からすれば少し広くなりました。
ここは、平戸街道を利用しています。この分かれ道で左へまっすぐ行けば正福寺へ行きます(平戸街道)。県道は右へ曲がって口石小学校の校門前に向かいます。




平戸街道の駕籠立て場跡は、史料では14か所あるそうですが、現在分かっているところは10か所でそのうちの1か所です。口石と佐世保市の境目の所にあります。ここには立派な石に刻まれた標識が出来ました。この辺りは早春からフキノトウ、ワラビ、ゼンマイ、ツワブキと山菜の豊富なところです。
ここから殿様が眺めたと言われる景色です。佐世保富士(愛宕山)や九十九島も見えてなかなかのところです。

ここに架かっている橋は森の木橋ですが、当時は飛び石だったのでしょう。
