写真ではよく分かりませんが、この一帯のくぼ地が今では水は全く溜まっていませんが、ジョウゴダニノツツミの所と思われます。
この堤のすぐ下は畑があったけど今は何も作られていません。上の写真はこの畑の土羽(どは)で、その下を町道淨香谷線が走り、その下が平田溜池となります。
中園山の堤(ナカソノヤマノツツミ)
この堤の場所は淨香谷の堤のさらに上の段です。背の高い夏草をかき分け、つる草を鎌で切りながらやっと近づく事が出来ました。水が、たしかに水がたまっていました。今では田んぼに引かれる事もなくなったのに律儀に水を溜めていました。この辺りは水気が多そうでこの堤の上の段の畑跡の水たまりはイノシシのヌタバ(イノシシが泥んこになって体に泥を付ける場所)になっていました。 この辺りの田畑は現在は耕作放棄され、ひどい藪地になっていて、写真で表現することができません。イノシシの格好の住処となっているようです。真新しいイノシシの足跡をいくつも見かけました。近くには竹山があり春には、うまいタケノコが取れていましたが、今ではイノシシに旨い初物は奪われ、我々は彼らのおすそわけに甘んじるようになっています。
口石の溜池を耕地整理の堤も含めて11か所紹介しましたが、現在使用されているのは4か所だけです。農業構造改善事業で農地は整然と区画整理がなされ、水路もきちんと整備されました。渇水になっても佐々川からの揚水ポンプにより上げられた水で万全を期しています(使われた話を聞いたことはありませんが)。万事よくなったようにも見えますが、昔の山や川の風景とは少し違うような気がするのは、私が年をとったということでしょうか。




寺田の堤の下段にありますが、水は全く溜まっていません。この池の水を使う田んぼが現在では1枚もないのですから仕方ありません。



右上の白い壁の建物が、現在の口石集会所です。もともと田んぼだった所に当時の人は公会堂と呼んで建てました。口石の中心に位置しており、戦後は公民館として活動の中心でした。昨年完成した建物は佐々町のものとなり名称も「口石集会所」となりました。このすぐ裏手にあるので、公会堂の堤としてなじんできました。
ここも水面いっぱい水草に覆われていますが、春先には睡蓮の花も見られます。正福寺の庫裏のすぐ横にあります。写真の高い屋根は正福寺本堂です。農業用水として使われている気配はしませんが、以前正福寺には田んぼがあったそうですからそこへ水を引いていたのでしょう。 


この池には「平田第二溜池」があります。使わなくなって何年にもなるらしく深い草丈に阻まれてこれ以上は近づくことはできませんでした。
木場川からの取水口です。太田橋の約150メートルばかり下流に堰を作り、上の写真左側の水路に導き入れています。この水利権は堰を越える水がある時だけしか取水できない事になっているとのことです。
ホテルフェイスの前でトンネルの中に水は潜っていきます。町道木場線とホテルの取りつけ道路の下、長さ約70メートルのトンネルです。堀切にして土盛りで埋めることも考えられますが、この入り口の所では高さ1メートルばかりは石で塞いであり、人間1人が作業するためのものと思われます。
トンネルの出口です。水が貯水池にたまっています。北松浦郡一帯では明治の頃から石炭の採掘がされていて、炭坑の坑道を掘る職人はいたのですから、この水路工事にトンネルを掘るのはたやすいことだったのかもしれません。
トンネル出口の上から見たところです。こちらから見ればかなりの高さがあり、とても堀切で水路を作ろうとは思われません。
ため池(耕地整理の堤)の堤防の上から見た写真です。右奥がトンネル出口の取水口です。ここから見れば、この池に水がたまるのはなぜだろうと思うぐらい雨水の流れ口が考えられないところです。子供の頃、耕地整理の堤でよく泳いでいたという人の話では、近くの平田の堤と比べてもここはかなり深かったとのことですから小さいながらも貯水量は十分あったようです。
堤からの水は土管を使って、田んぼへと配られるのですが、平田の墓地の所(写真の右)ではかなり低くなり、ここから高い田んぼへと上がっていきます。この土管はよく破れて補修に手間と金がかかったそうですが、一部に土管のままの所もあるそうですが、この辺りはビニールパイプを使いバルブの開閉で写真のように放水する事が出来るようになりました。数年前までは、木栓に布を巻いたものを打ち込んでいました。
このサイフォンの原理で、用水を送るのは、熊本県の通潤橋があまりにも有名で口石のものは見劣りはしますが、立派に役目を果たしています。
最初の田んぼの所(1番高いところの田んぼ)まで来た水は溜め桝から3方向へ田んぼの面積に応じて水の分配が行われている様子が分かります。砂岩に刻まれた水路の幅が、中央:左:右では1:2:4となっています。

右に小さい橋が架かっていますが、この農業用水路を渡って国道の方へ旧県道は通じていました。国道は田んぼからするとかなり高いところに作られましたが、旧県道は低いところで木場川を渡っていました。
上の写真は現在の妙見橋で、その上を横切るように高速道路の橋が架かりました。旧県道の妙見橋は現在のものより少し下流にありました。
国道を作る時、直線的なコースを取り、芳の浦の峠を越えるためこの辺りはかなりかさ上げが行われました。したがって、新しい妙見橋は橋桁が高いものになりました。そこに終戦後の一時期ホームレスが住み着き、ゼンモン橋と言うようになったそうです。今でも妙見橋と言わずにゼンモン橋と言う人もかなりいます。