戦死者名の他に階級が付けられ、戦死の日付と場所も記されています。それによると、明治7年に佐賀で戦死された方が1名だけおられます。この方は江藤新平らの佐賀の乱の時戦死された士族の方のようです。
日本の西の端、長崎県は佐々町口石にある田舎の・いなかのお話です
戦死者名の他に階級が付けられ、戦死の日付と場所も記されています。それによると、明治7年に佐賀で戦死された方が1名だけおられます。この方は江藤新平らの佐賀の乱の時戦死された士族の方のようです。

玄関前のロータリーには校訓碑が昭和58年に建てられました。校訓は「やる気 本気 根気」です。その頃、わが家の3人の子供たちが口石小学校に通っていたので、家の中でも「やる気 本気 根気」と大声で唱えていたので、私も覚えてしまいました。
その頃はなかったのですが、最近何かと、行事の時に「3気太鼓」というのを口石小学校の子供たちが演奏しているのを見ることがありますが、校訓をこのような形にしたのは立派なものだと思います。

この記念碑は口石田原(通称、森の木)のほぼ中央、佐々病院のそばに建てられています。昭和51年から54年にかけて第二次農業農業構造改善事業の完成を記念して「拓心」として「口石田原開田由来記」が刻まれていますので原文通り紹介します。
口石田原由来記
太古、氷河は山を削り、風は谷を穿って幾星霜。
川は南に北に流れをくりかえす。
縄文人は森の影(キ)の川原に石鏃(ヤジリ)をつくり、川窪に魚を追う。
古代、木場谷の周りに稲作がすすみ、
上代、太田は開かれ、川洲にも鍬が伸びる。
中世、ここに根を張る竜神の楠は伐られ、宗寿庵下に治水開拓の縄が引かれた。
風雪を冒して河岸を固め、田に石垣をつみ、土を搬ぶ村人の努力は、往時の川原を美田にかえ、竹ノ本には塩たく煙が立のぼる。
一四二二年応永二九年と、一四三〇年永享二年の正興寺釈迦如来田畑坪付の中に「久知石四段同屋敷一所」が、佐々地頭源存、当住持比丘来遠の署名で残る。宗寿庵である。
遠く六百有余年前、祖先の手に拓かれた穀倉古田にも機械化の波が押よせ、牛馬に代って耕耘機が音をたてる。
今回関係者一同相議し、農道を拡げ、水路を替え、八字(あざ)一七二枚の田を九四筆の圃場に甦らせ完成した。
農業の永遠の栄を念じてこの碑を建つ。
昭和五一年4月吉日
関係者一同
以上が黒御影石の表面に刻まれています。この文章を書いた人は、当時町会議員(共産党所属)をされていた野田銀蔵さん(故人)です。野田さんは共産党議員として普段から地道に活動をされながら、郷土史や考古学に造詣の深い方で、何度か史跡めぐりを案内してもらった事がありました。
口石に限らず、この地方では記念碑には関係者の氏名を書かない風習があるようです。特に、野田さんの場合、共産党議員と言うことで名前を出しにくかったのではないでしょうか。これだけの文言を作れる人ですから、他からの依頼もあり佐々町内には何基か記念碑があります。いずれも本名はなく、無記名か雅号の「芳崖山人」名です。
関係者は後の時代になっても地権者のことですから誰の祖先だとは分かりますが、やはり記念碑にはきちんと記名する方がよいと思います。尚この石碑を作った石工は佐世保市の佐藤退助さんです。
佐々町消防団第5分団が昭和48年に、北松浦郡の操法大会で優勝した時の記念碑です。
さらに、この写真は郡大会優勝を受けて、翌49年に長崎県大会に出場して見事優勝した事を記念して建てられたものです。選手名がまったく書かれていませんので、詳しく書き記します。
この橋は川の流れに直角に架けられた普通のアーチ橋だったのでしょうが、最近の自動車の通行に合わせて道路改修が行われたために石橋と舗装道路との角度が45度くらいずれたものになっています。
< 草むらに立つ「林道開通記念碑」>
以上佐々町にある石のアーチ橋を紹介しましたが、いずれも100年以上たった今も立派に橋としての機能を果たしています。これらの橋を古い石橋と気付かずに自動車で通り抜けていました。
この橋の特徴は、12メートル余りにも及ぶ橋の幅(アーチの長さ)で、これほどの幅の広い石橋は九州では見ることはできないそうです。橋の上には土盛りがされ、傾斜があるため道路幅はかなり狭くなっています。以前橋の両側にはコンクリートの柱が建てられてその間に鉄のチェーンが掛けられていたそうですが、戦時中に金属の供出のため、この鎖まで無くなったそうです。
アーチや、壁石には「江戸切り」と呼ばれる近代的な削岩様式が用いられ、下流側(上写真)の底には平たい石を敷き詰めて、流れてきた土や石が溜まらないような工夫がされた所が今もはっきり見られます。
上の写真は上流側からのものです。アーチ部や壁面は今もって完璧なものです。
江里峠の頂上から少し下ったカーブの所に上の写真の立て看板が立てられました。佐々町の指定文化財となっています。この付近では昔の平戸街道(平戸往還ともいう)を利用して県道は作られました。看板の写真では文字が読みづらいと思いますので、抜粋します。工事請負人は井手儀三郎(西彼杵郡浦上山里村)、石工は樋渡芳蔵(佐賀県有田村)。この橋は北松浦半島で現存するものでは最も古いといわれています。
上流側から、アーチ橋の石垣は全く痛む事もなくしっかりしています。
下流側からの写真です。交通量が増えたり、カーブがあるため道幅を広げていますが、その際、土管を使って土盛りをしている様子が分かります。
なお、この橋の建設に関しては、長崎県の技官山口宗助という人が亡くなられて(病死)その慰霊塔とも言えるもの(上写真)がこの橋のすぐそばに建てられています。北松浦郡長従七位 朝長東九郎 選文並書