2012年4月30日月曜日

石橋(17)倉渕橋

17.倉渕橋 (くらふちばし)佐世保市世知原町栗迎(佐々川)
架橋:大正8年 橋長:20.6m 橋幅:4.6m
世知原から佐世保の皆瀬への道路、佐々川本流に架けられています。路線バスも走っていて石橋の頑丈さを物語っています。橋の下は公園化されています。川岸までスロープが作られ、身体障害者が車椅子で釣りを楽しめるように整備されています。

2012年4月23日月曜日

石橋(16)いし橋

16.いし橋 佐世保市世知原町栗迎(佐々川支流路木場川)
 架橋:明治40年 橋長:8.9m 橋幅:3.2m  この橋は案内板もあり、行きつくのには簡単なところですが、石橋本体を見るにはかなり苦労をします。石橋は真横から見た角度がもっともよくその形が分かりますが、横から写真を撮る場所は見つからず、まわりには灌木がよく茂っています。上の写真ぐらいがよく見えるところです。この橋の水面からの高さは10.1mと非常に高く、両岸は岩が鋭くえぐられたところに位置しています。橋の上から川をのぞいたらこの写真のようになっています。川幅が狭いので石橋になったのでしょうが、幅が広かったら「吊り橋」が似合いそうなところです。この川幅と高さでは洪水のとき川の水がかかる事はなかったでしょう。この辺りの石橋はそれなりの名前が付いていますが、この橋だけは「いしばし」と平仮名になっています。なぜ名前がないのか想像してみると面白いものです。




2012年4月16日月曜日

石橋(15)丑太郎橋

15.丑太郎橋(うしたろうばし)佐世保市世知原町長田代(佐々川支流鍋田川)
 架橋:大正時代 橋長:5.3m 橋幅:1.8m
 自然石だけをを使いアーチが架けられています。しかも、農作業のためだけの石橋です。前回の野田橋から下ったところにあり、同一人物が作ったものと言われています。ここらの農地の地主さんでもあったようです。そうすると、その人の名は「野田丑太郎」と言うことになりますね。この人は、兼業農家で、農閑期には石工として石垣を組んだりしていたのかもしれませんね。
 野田橋は昭和30年ごろで、丑太郎橋は大正時代ということですから、農地優先で自宅の橋は余裕が出来てから切り石を使い念入りに作られたということになりますね。 橋の上の道は写真のように1間ほどありますから、シャリキやリヤカーは通れる道幅ですが、自宅までの道はすごい急こう配で、今でこそ舗装されていますが、今の人では、荷物を積んだリヤカーを引っ張ろうと考えないのではないのでしょうか。この橋を見に行く場合も、軽自動車も入れない道幅ですから、歩いて行くしかありません。もっとも、バイクを自由に使いこなせる人なら面白いかもしれません。それでも、イノシシよけの電線がいたるところに張られているので用心してください。

2012年4月9日月曜日

石橋(14)野田橋

14.野田橋(のだばし)佐世保市世知原町長田代(佐々川支流鍋田川)
 架橋:昭和30年頃 橋長:2.7m 橋幅:1.8m

この橋はただ一軒だけのために架けられた石橋です。昭和30年とすれば、佐々川流域では最も新しいアーチ石橋と言えるでしょう。訪れた時は留守らしく、お話を聞くことはできませんでした。
家の方からは川のそばまで下りる石の階段が作られていて、川の水で洗いものをすることが出来ます。砂岩が使われていて、今までに使い込まれてすり減ったところは生活の香りがしました。野田橋と言うのですから、このお宅は野田さんと言われるのではないでしょうか。




2012年4月2日月曜日

石橋(13)奥の口橋


13.奥の口橋(おくのくち)佐世保市世知原町太田(佐々川支流鍋田川)
 架橋:大正15年 橋長:3.4m 橋幅:1.7mこの橋の特徴はなんといっても、左岸の壁石が洪水で流されてなくなっていることです。それでも、輪石はしっかり残っており、アーチの石橋の強さを物語っています。本来この橋は太田地区から世知原の町への道だったそうです。現在は県道が立派に出来ていますが、当時は主要な道だったと思われます。この橋のすぐ下には滝もありいつも山水が流れています。季節になれば、イワタバコの花が岩肌を彩っています。

奥の口橋へ行くには、弦掛観音や西福寺を通ってしか行かれません。奇岩が多いところで観音さんのは古そうですが、お寺は明治以降のものらしいようです。お寺を通り過ぎていくと、世知原町が整備した弦掛公園になります。普段はほとんど人影がありません。花見の時も人混みがなくて良いという事を聞きます。奥の口橋はこの公園の目玉の一つで、中国語や韓国語の案内標識などもあります。