2012年1月30日月曜日

石橋(4)橋川原橋

4.橋川原橋(はしかわばるばし)吉井町直谷(福井川)
 架橋:大正15年 橋長:14m 橋幅:3.5m

 小学校6年生の時、福井分校から本校の吉井小学校に行くときには、この橋を通っていました。今では、バイパスが出来てこの橋を通る人も車もめったにいません。大型のアーチの曲線は美しく、まわりの田園風景に溶け込んでいます。

 この橋の少し上流にコンクリートの3連アーチの鉄橋「福井橋梁」があります。バイパスはその真ん中を通っています。この鉄橋は戦時中に作られ、資材不足のため鉄筋の代わりに竹が使われていると小学校の時、担任の先生が話してくれました。最近、大学の研究チームが調べましたが、竹が使われているとも、使われていないとも結論を出しませんでした。 地元の人たちは竹が使われていると思っています。








2012年1月23日月曜日

石橋(3)曲川橋

3.曲川橋(まがりかわばし)吉井町前岳(福井川)
 架橋:昭和2年 橋長:3.3m 橋幅:3.6m

 現在、この橋は車の通行もできる立派なものではあるけど、人通りの少ない橋です。しかし、架橋された昭和の初めごろは、この付近には炭住街がたくさんありました。炭坑が閉山した後に鉄道でこの付近をよく通っていましたが、廃墟になった炭住、その中でも風呂屋の跡が残っていたのが印象的でした。もしも残骸でも残っていればと通路を探してみたけど、完全に山に覆われて道らしいものを見つけることはできませんでした。
 この橋は、佐世保市の文化財になっているので立て看板があり、説明がされています。


このすぐ近くに「曲川橋展望所」というのが作られています。これは、吉井エコツーリズムふるさとの会が一帯を公園化しているのです。


















そこには、会で作った「夢追橋」と「ほたる橋」という自然石のアーチ橋が架けられています。


2012年1月16日月曜日

石橋(2)前岳橋

.前岳橋(まえだけばし) 吉井町前岳 (佐々川支流福井川)
 架橋:大正11年 橋長:20.5m 橋幅:4m
 吉井町の体育館のそばに架かっています。
 現在この橋は中央分離帯が設けられて、歩道橋も併設されています。石橋部分は写真の右の車道で、左側の車道と歩道はコンクリートの橋です。橋のこちら側には吉井南小学校と中学校がありますので、朝夕には大勢の児童生徒がこの橋を通って通学しています。






 石橋のたもとには「まえだけばし」と親柱石に仮名で彫られたのがあります、大正11年に架けられた時のものです。




 平成15年に歩道橋付きのコンクリートの橋が架けられた時、真鍮製のネームプレートが取り付けられました。漢字では前岳橋と全く変わりませんが、仮名では「まえたけはし」と濁点がとれています。石橋を文化財として大切にしている町ですから、先人が付けた名前は大切にしてもらいたいと思いました。






















2012年1月9日月曜日

佐々川流域の石橋(1)樋口橋

口石からはみ出したついでに、これからしばらく佐々川流域に架かっている橋それも、石のアーチ橋を中心に書いていく事にします。


 この項に関してはすえながのぶを著「佐々川流域の石橋群ガイドブック」をご本人の承諾を得て参照させていただく事にします。


1.樋口橋(ひぐちばし) 佐世保市吉井町樋口(佐々川に架橋)


 架橋:大正11年、橋長36m、橋幅:6.3m 佐々川に架かっている石橋では最も下流のものです。

 佐々川は長崎県では最長の川ですから、それなりの川幅があります。したがって、写真のように2連アーチ橋になっています。2連の石橋は県内に5基しかなく(内2基は移設保存)現役で、車を通しているいるのはこの樋口橋だけだそうです。石橋として、県下最長、最大、最強を誇るものです。 この写真は東京の日本橋の現在の姿です。高架の高速道路が邪魔をしてお江戸日本橋も今ではぱっとしませんが、この橋をモデルにして樋口橋は架けられました。はじめは白い御影石の欄干があったそうですが、昭和の水害の時流されて、その後鉄の欄干に修復されたそうです。 上の写真は皇居の二重橋のものです。樋口橋のたもとの説明板にはこの二重橋を模したと書かれています。3枚の写真を見比べてください。明らかに樋口橋のモデルは二重橋ではなく日本橋である事はお分かりになられるでしょう。東京では周りの環境に押しつぶされそうになっていますが、ここの樋口橋は大水害にも負けず周りの景観を引き立たせる役目をこれからも続けてくれることでしょう。




  

2012年1月2日月曜日

アーチの石橋発見

橋本橋
 車で走っているときは、気付かなくても歩いて通れば意外なことが目に付きます。最近は自転車で出歩くことが多く、この日も吉井、世知原の石橋の写真を撮りに出かけ神田を通りかかった時、道路わきの小さな水路に架かっている橋が、アーチに見えたので近寄って見たけど、土と雑草に覆われていて石の継ぎ目はほとんど分からず、コンクリートアーチのようにも思えました。 川に降りて見たら砂岩の立派なアーチ橋です。しかし、役場の台帳にはこの橋は載っていませんでした。

 その後、近所の人に話を聞きましたが、石橋ということは知っていても、何も気にとめることもなく、普通に使用されていたそうです。この橋を常時使っているところは2軒だけです。いつごろどんな経緯で架けられたかは全く聞いたことがないそうです。石橋にはそれぞれ架橋にまつわる物語が残っているのに、何もないのは不思議な気がしますが、この辺りには昭和の初めに神田(こうだ)炭坑(通称、日鉄神田)が開かれて、神田小学校が出来るほどの賑いとなりました。しかしそれも、昭和36年には閉山してしまいました。
 写真奥の家は、橋本(神田町内会長)さん宅です。前の田んぼに炭坑時代は炭坑のテニスコートがあったそうです。たぶん炭坑が石橋を架けたのだろうとのことでした。流れている川は川添川とのことです。この橋を利用しているもう1軒も橋本さんということでこの橋の名前を橋本橋ということにしようと二人で命名しました。上から読んでも下から読んでも、川も橋も同じ語呂合わせになりました。
 この付近には炭坑時代の遺物がかなり残っています。上写真は神田炭坑の坑口です。橋からすぐ見えます。
 この長く続く石垣は、石炭を運び出すトロッコ線路跡で、手前には線路の橋がかかっていたそうです。




 少し上手に、レンガ作りの炭坑の変電所跡がつる草に覆われていますが数年前までは屋根もありました。







トロッコ橋
 はじめは石炭を積んだトロッコを馬が引いていたそうですが、後からは、軽便鉄道の蒸気機関車が15両程のトロッコを引っ張っていたそうです。場所は軽便鉄道の猪立山(いたちやま)駅、現在では清峰高校前駅と神田駅の中間あたりの佐々川の淵に石のアーチ橋の1条だけ輪石が残っています。この橋も当時はちゃんとした名前が付いていたのでしょうが、今では、トロッコ橋と呼ばれています。増水時には水に揉まれていますが、壊れないのは、アーチの石組の強さを証明しているようです。これも含めると佐々町には5基のアーチ石橋がある事になりました。


 口石金比羅さん物語として書き始めたものの、3年目を迎えて口石だけではネタ切れになってきました。今後は、佐々町・北松・県北地区へと広げていきます。