2011年11月28日月曜日

口石の記念碑(2)拓心の碑

拓心の碑

 この記念碑は口石田原(通称、森の木)のほぼ中央、佐々病院のそばに建てられています。昭和51年から54年にかけて第二次農業農業構造改善事業の完成を記念して「拓心」として「口石田原開田由来記」が刻まれていますので原文通り紹介します。
       口石田原由来記
 太古、氷河は山を削り、風は谷を穿って幾星霜。
 川は南に北に流れをくりかえす。



 縄文人は森の影(キ)の川原に石鏃(ヤジリ)をつくり、川窪に魚を追う。
 古代、木場谷の周りに稲作がすすみ、
 上代、太田は開かれ、川洲にも鍬が伸びる。
 中世、ここに根を張る竜神の楠は伐られ、宗寿庵下に治水開拓の縄が引かれた。
 風雪を冒して河岸を固め、田に石垣をつみ、土を搬ぶ村人の努力は、往時の川原を美田にかえ、竹ノ本には塩たく煙が立のぼる。
 一四二二年応永二九年と、一四三〇年永享二年の正興寺釈迦如来田畑坪付の中に「久知石四段同屋敷一所」が、佐々地頭源存、当住持比丘来遠の署名で残る。宗寿庵である。
 遠く六百有余年前、祖先の手に拓かれた穀倉古田にも機械化の波が押よせ、牛馬に代って耕耘機が音をたてる。
 今回関係者一同相議し、農道を拡げ、水路を替え、八字(あざ)一七二枚の田を九四筆の圃場に甦らせ完成した。
 農業の永遠の栄を念じてこの碑を建つ。
    昭和五一年4月吉日
                  関係者一同  
 以上が黒御影石の表面に刻まれています。この文章を書いた人は、当時町会議員(共産党所属)をされていた野田銀蔵さん(故人)です。野田さんは共産党議員として普段から地道に活動をされながら、郷土史や考古学に造詣の深い方で、何度か史跡めぐりを案内してもらった事がありました。  
 口石に限らず、この地方では記念碑には関係者の氏名を書かない風習があるようです。特に、野田さんの場合、共産党議員と言うことで名前を出しにくかったのではないでしょうか。これだけの文言を作れる人ですから、他からの依頼もあり佐々町内には何基か記念碑があります。いずれも本名はなく、無記名か雅号の「芳崖山人」名です。



 関係者は後の時代になっても地権者のことですから誰の祖先だとは分かりますが、やはり記念碑にはきちんと記名する方がよいと思います。尚この石碑を作った石工は佐世保市の佐藤退助さんです。


 

2011年11月21日月曜日

口石の記念碑(1)5分団優勝記念碑

消防5分団優勝記念碑

 口石金比羅さんにまだ紹介していなかった記念碑があります。
 佐々町消防団第5分団が昭和48年に、北松浦郡の操法大会で優勝した時の記念碑です。

 さらに、この写真は郡大会優勝を受けて、翌49年に長崎県大会に出場して見事優勝した事を記念して建てられたものです。選手名がまったく書かれていませんので、詳しく書き記します。
  分団長    森田 治吉
  指揮者    山永 美義
  第1操作員 淡田 邦夫
  第2操作員 大浦 隆二
  第3操作員 大浦 三男
  第4操作員 松野 正司
 練習は夏場の暑い盛り、仕事を終えてから、佐々中学校のグラウンドに集まり、雨が降らなければ毎日、基本操作の反復練習を行っていました。選手以外の分団員もホースの巻き取りなどの加勢や、OBからは差し入れや応援と新旧団員一丸となった取り組みでした。しかも、郡大会、県大会と2年間に渡る2秒、1秒を縮める厳しいものでした。その甲斐あって優勝の栄冠を勝ち取る事が出来たのでした。

 県大会の長崎では、練習では、歩数がなかなか合わずに苦労していたものが、本番ではばっちり決まって満点の出来栄えだったと選手の人は今も良く覚えているとのことです。



 

2011年11月14日月曜日

佐々の石橋(3)高峰橋

高峰橋(たかみねばし)
 佐々町神田と吉井町の境界を流れる、高峰川に架かっています。道路は町道八口ー川添線の支線です。すぐ近くに八口(やぐち)橋がありその付近に大正5年3月に建てられた「林道開通記念碑」があるので、その頃に架けられた橋かも知れません。


 この橋は川の流れに直角に架けられた普通のアーチ橋だったのでしょうが、最近の自動車の通行に合わせて道路改修が行われたために石橋と舗装道路との角度が45度くらいずれたものになっています。


       < 草むらに立つ「林道開通記念碑」>


 以上佐々町にある石のアーチ橋を紹介しましたが、いずれも100年以上たった今も立派に橋としての機能を果たしています。これらの橋を古い石橋と気付かずに自動車で通り抜けていました。


2011年11月7日月曜日

佐々の石橋(2)江里峠下橋

・ 江里峠下橋(えりとうげしもはし)
   この橋は前回の江里峠橋のおよそ200メートルほど下流に架かっています。工事が行われたのは、江里峠橋より30数年遅れて、大正10年に旧県道を広げたり、急カーブ、急傾斜を緩和する工事されたときに作られたと言われています。前出の三好芳男さんの話ではこの橋は「下の茶屋橋」と呼ばれていたそうです。すぐ近くに屋敷跡らしいところが残っています。この江里峠には明治なっても茶店が2軒あり、もう一軒は「上の茶屋」と呼ばれていて、現在も神田さんといわれる子孫の方が昔の場所に住まれています。
 この橋の特徴は、12メートル余りにも及ぶ橋の幅(アーチの長さ)で、これほどの幅の広い石橋は九州では見ることはできないそうです。橋の上には土盛りがされ、傾斜があるため道路幅はかなり狭くなっています。以前橋の両側にはコンクリートの柱が建てられてその間に鉄のチェーンが掛けられていたそうですが、戦時中に金属の供出のため、この鎖まで無くなったそうです。  アーチや、壁石には「江戸切り」と呼ばれる近代的な削岩様式が用いられ、下流側(上写真)の底には平たい石を敷き詰めて、流れてきた土や石が溜まらないような工夫がされた所が今もはっきり見られます。 上の写真は上流側からのものです。アーチ部や壁面は今もって完璧なものです。


 この橋の下を流れている川の名前を調べましたが、佐々町の建設課の台帳にも記載がありません。地図で調べても江迎川の支流の山の田川の支流の高岩川のさらにその支流で名前が付いていません。この川は江迎町側に流れていて、近くに江里川というのもありますが、この川の水は、佐々側に流れている別物です。 橋の名前も台帳にはありません。平成21年4月にこの橋の近くに説明の看板を建てた時、佐々町教育委員会が名前を付けたそうです。おそらく明治・大正の橋を架けた時には名前はあったでしょう。長崎県の当時の台帳があれば記載されているのではないでしょうか。