2010年8月30日月曜日

昭和13年の議事録(大正の金銭出納帳発見)

昭和13年1月7日
      協議事項
 区貸付金の利子は年1割2分とす
  但し各年取り立て定日12月20日当日出金者に限り年1割とす

 区長      森田喜市氏
 代理及会計 永石浅吉氏(善吾さんの祖父)★★
 評議員 上  藤永 新氏
     下中  末永惣太郎氏
       下  大浦新市氏
          松田力太郎氏
昭和13年7月8日
      村祈祷施行の境
 山口市造氏より家内の養母を市造氏一家同等に存も□区割右相談あり□□故承諾す

   昭和13年10月2日
伝染病死亡者は死亡後一週間以上経過せざれば葬式は出来ざる事に区の総会の決議に依りて之に定む★★★

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★ 口石区の「金銭出入帳 口石触」大正2年1月起 という半紙に墨書の記録が偶然なことから、私の手元に入りました。下の写真がその表紙です。外れかかっていますが、表紙には厚紙(和紙)を使っています。   内容は数字を漢字で筆で縦書きで書かれています。最上桁は万の位で、最下位の桁は「厘(りん)」です。1厘は10分の1銭ですが、大正時代のこの頃は最低の貨幣は5厘が使われていたようです。野球選手の打率をいう場合は今でもその下の位まで、何割何分何厘何毛と使われる事がありますね。

 この当時、昭和8年1月の記録では、区有金総額6492円59銭で内訳は貸付証書面4062円(約63%)で残りが銀行や信用組合への預金や現金です。
 年間の歳入金は753円42銭
  同  歳出金は454円82銭(区長手当他)
ですから、区の行事の為に支出するというよりは区民の為の金融機関=金貸しが主だったといえます。利息がいくらかはっきりしなかったけど、この年の議事録で年1割2分とすることがはっきりしました。もっとも、12月20日の定日に払い込めば利子を1割に負けるというのはなかなか良いアイデアですね。



★★ 下の写真は、この年区長代理兼会計に当選された永石浅吉さんの自宅(当時とあまり変わっていない)と前田です。青々と稲がしげるこの田んぼはその後、土地改良事業が行われて、まとめて広々となりました、口石では1枚の田んぼで一番広くて、6反(1800坪)あります。今年も豊作が期待されます。 



やはり大豊作でした



★★★ この年伝染病が流行ったのでしょうね。それにしても伝染病の死者の葬式は一週間以上出せないというのは、どんな意味があったのでしょうか。しかもその事を、町内の総会で決議をして決めたと言うのですからますますわからなくなります。厚生省や保健所はどうしていたのでしょうか、田舎では機能していなかったのでしょうか。



2010年8月23日月曜日

昭和12年の議事録(町内会費は米5升)

  昭和12年1月7日初寄協議事項
1.決算報告一同承認を受く
1.部落常会の件
1.1ケ年区 出夫の件(2円50銭)と定む
1.区割り変更の件(米取り立てをやめ)金1円50銭と定む
1.森の木里道改修 3月1日より
1.青年補助金10円(部落常会の件承認)
1.野坂 果樹園変換にて造林する事
1.評議改選 松田力太郎、上、大浦正雄★★
   右の通り承認候也

    12年4月14日
1.横田安之助氏村会議員当選に付き
      区長    志方重太郎氏
      区長代理 松田幸四郎氏
 区総会の結果承認を受けたり
1.前区長退職慰労金として
   15円也、礼金なす会計より
   10円  区長準備金より


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★ 現在の町内会費に相当する「区割り米:5升」だったものを、この年から現金1円50銭と変更になりました。実質的には10銭の値上げになります。当時の物価として米5升の金額はおよそ1円50銭という事でしょう。
下の写真は今年3月の公民館新築移転に伴う引っ越しで見つかった資料の中で、半紙を縦半分に折り、昭和11年から16年までの分21冊です。

 内容としては、支出帳、区割取立帳は上と下で2冊、他に出不足取立帳、地料取立帳などです。下の写真は昭和11年の区割り取り立て帳の一部です。大部分は米5升となっていますが、大工さん、商店主、お医者さんなどは現金1円40銭となっています。


 なぜか昭和12年の分は見つかりませんでしたが、昭和13年以降の区割り金は1円50銭になっています。

★★ この年初めて評議員になられた大浦正雄さんからは口石の昔の事をいろいろと多くの事を話して聞かせてもらいました。今になってみればその時、メモでもよいので記録をしておけばよかったとつくづく思います。
 平成9年に91歳で亡くなられた時、お葬式に行きましたが、弔辞の中で曾々孫(ヤシャマゴともいう)が数人いて孫・曾孫が50人以上との話が印象的でした。
 大浦正雄さんが住んでおられた家の前庭に古い井戸と「黒髪大明神」とある石の祠が祭ってあります。下の写真のように現在は電動ポンプと配管により蛇口をひねれば水が出るようになっています。春先のシロウオの季節にはこの水で元気よくシロウオが大きな樽の中を泳いでいます。

2010年8月16日月曜日

昭和11年の議事録(木場川に水車・精米所)

   昭和11年1月7日初集会協議事項

1.決算報告一同承認を受く

1.半坂雑木山伐採の件

1.野坂松植の件フケギリ役場委任受けてなす

1.森の木道路改修、巾広め一同承認

1.役員改選

     区長   横田安之助

     代理   志方重太郎

     会計   森田 祖助

  新任 評議員 山本 藤蔵
   〃   〃  森田 喜市
1.区入り分家相談 熊本朝雄
1.区入り 山下茂男、山口市三
   閉会

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★ この年、評議員になられた山本藤蔵さんは当時口石の「龍開(りゅうがい)」(現在山本邦夫さん宅)の所で木場川に水車を回して、精米所をされていたそうです。そこは現在川は護岸がきれいに整備されていて下の写真のようになっています。 
 その後、国道沿いに出られて、精米所をされました。現在も米穀店(下写真)をお孫さんの代になって営業されていますが、精米機や油絞りの機械は今はありません。


2010年8月9日月曜日

昭和10年の議事録(後の町長が評議員に)

  昭和10年1月7日初集会協議

1.決算報告一同承認を受く

1.消防用水溜を4か所設置する

1.里道、バラス敷する事

1.区長給40円也を50円となす

1.金比羅神社境内拡張の件  以上決議

1.評議員改選
   上 藤永源市君  下 横田十三郎氏

1.杉下払は希望者に一任

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★ この年初めて藤永源市さんが評議員に当選されていますが、区長さんよりは若かった(4歳年少)せいで、君付けされて記入されています。 
 その後、藤永源市さんは佐々町郷土史によると昭和22年戦後初めての普通選挙で、新人5人の争いの中、激戦を制して佐々町長に当選されました。途中で辞職され、在任期間は非常に短かったそうです(4か月)。

 

 上の写真は源市さん夫妻のお墓です。戒名は下の写真のように「大源院殿榮覺壽仙居士」とあり、昔のお殿様のみたいに院殿号が付いています。墓石は黒島御影石の立派なものです。

2010年8月2日月曜日

昭和9年の議事録(口石1里塚の大木)

   昭和9年1月7日初総会協議

1.決算報告一同承認を受く

1.念仏講の件 寄留人には誓約書を入れさせ区の承認受けてより念仏講に加入を許す

1.婦人会補助の件 これまで金10円を金12円とす

1.区長及代理、会計、評議員改選

   区長  横田安之助

   代理  志方重太郎氏★★

   会計  森田 亀一氏(数博さんの祖父)★

   評議員 上 宮本新三郎氏★★ 下 大浦信一

        下中 松野寅一氏  中上 松田幸四郎

1.触役給の件 これまで一人半年に付、金1円也を上1円50銭、下1円25銭と改む

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★ 下の写真は森田亀一さん宅入り口にある榎(えのき)の大木です。この木は平戸街道(平戸往還ともいう)の一里塚と言われています。平戸松浦公が参勤交代の時田平の桟橋から出発して、江迎ー佐々ー佐世保ー早岐ー川棚ー彼杵へと進み、彼杵から小倉までは長崎街道を行かれたそうです。この街道沿いにはおよそ4キロごとに一里塚の木が植えられていたそうです。彼杵までの間には13か所に大木があった事が確認されていますが、現在江戸時代の原木がそのまま残っているのは、この口石一里塚の榎だけです。田平から数えて5番目にあたりますから、およそ20キロという事になります。

        (平戸街道の一里塚の大木)

★★ 自分以外の人の氏名には「氏」を付けて書かれているので、この筆の筆跡は区長の横田安之助さんのものだと思われます。しかし、大浦信一、松田幸四郎さんのところにも「氏」が付いていないので、もしかしたら最後の松田幸四郎さんの筆跡かもしれません。この松田さんは達筆との評判で石碑の揮毫もされていますから。