2010年1月25日月曜日

横田安平 さんのこと

 横田安平さんは明治6年11月13日に亡くなられたと東光寺のお位牌に記録があります。役場の戸籍は子孫の方に問い合わせてもらいましたがありませんでした。明治6年ごろはまだ戸籍が確立していなかったのでしょう。  上の写真は横田家の墓地です。写真を撮った日は珍しく雪が降り積もった日でした。昭和になってから墓地を改修されたようです。古墓もあったそうですがまとめられて安平さん以降の名前が記入されています。子孫の方の話では安平さんは60歳前後で亡くなられたそうです。
 明治6年ですから、金比羅さん参りから2年後に亡くなられています。
 金比羅さん参りは、横田安平さん50代後半、友田千座さんと山永幸吉さんは27歳ですからテレビの水戸黄門漫遊記みたいな3人組の旅姿が思い浮かんできます。

 写真は横田家の庭先です。水神様の祠が木立の中にあり、向こう側に井戸が見えます。この井戸は現役として使われていますが、飲料水はさすがに水道からのものを使用されています。

 口石町内には数年前に調べた時には57個の井戸がありました。さすがに飲料水としては使われてはいませんが、風呂や雑用水としては電動ポンプをつけてかなりのものが使用されていました。

 横田家の家系

  横田安平→三代松→奥次郎→安之助→昭→憲治

2010年1月18日月曜日

友田ちくら さんのこと


 友田家は代々神官をされてこられました。現在の友田千利当主は17代目に当たられるそうです。佐々町松瀬免の熊野神社の神主をされています。
 現在は松瀬免に住まわれていますが、10年ほど前までは、ずっと口石に住んでおられました。口石小学校の近くに家屋敷もあり、古い井戸もあります。墓地・・・神主さんですから墓ではなく「奥津城」となっていますが、これも口石の正福寺横墓地の一画にあります。

 友田ちくらさんの戸籍謄本も佐々町役場からとってもらいました。上の写真がそれです。
これでは「ちくら」さんは天保14年(1843)8月5日生まれで、明治44年(1911)10月20日に67歳で亡くなられています。
また「ちくら」さんの戸籍の文字は「千座」と思われたけど「座」の文字の「人」が2つ並んだものの左側が「口」に置き換えられていました。その文字をパソコンで出すことが私の腕ではどうしてもできませんので「千座」と表記することにします。

 
 友田家の奥津城の2つある霊名塔の中央の円柱のものの真ん中に「千坐」と書かれていて、广がなく、左側の「人」も「口」になっています。あぐら座りというときのあぐらは「胡坐」と書くし「座」は「くら」とも読むので、「坐」と「座」は同じように使われていたのかもしれません。明治時代には、同じ文字が並んだら一つを違う文字に変えることがはやったりしたのでしょうか。


 友田家の家系

   友田千座→佐仲→俊夫→新→義衛→千利

2010年1月11日月曜日

山永幸吉さんのこと

 金毘羅さん参りをした3人のうちの一人山永さんの名を「浩吉」さんとしていましたが、古い戸籍を調べたら「幸吉」さんとなっていました。訂正して改めます。曾孫にあたる知さんに聞いたものですが、このとき知さんは病床に伏せておられて言葉では確認したけど、文字の確認まではしていませんでした。

   上の写真は子孫の方に佐々町役場から幸吉さんの戸籍謄本をとってもらいました。これによると、幸吉さんは天保14(1843)年8月22日生まれで、大正7(1918)年7月23日に亡くなられています。74歳ということは長寿ですね。

 こんなに古い戸籍は聞いてはいたけど、見るのは初めてでした。手書きしかも毛筆の達筆な文字が見事なものです。最近のパソコンの文字とは全く違う味があります。何であれ原本のコピーを取って証明するだけなのに、手書きのものは近頃のものの2倍以上の手数料を役所が取るというのはおかしな話です。


 幸吉さんの仕事は大工さんだったそうです。代々引き継がれて曾孫の知さんまでは大工さんでした。その子供は大企業の会社員となりましたので大工さんは途絶えました。

 この木箱は口石部落(当時)の役員から腕を見込まれ、頼まれて幸吉さんが作ったものです。大きさは30x21x9センチ(10寸x7寸x3寸)、ふたの表には「證物箱」と書かれています。部落総会の議事録や契約書などの証拠書類を入れるものとして今まで大事に扱われてきました。

 現在は口石町内会会長宅で書類とともに保管され代々引き継がれています。箱、ふたともにしっかりしていて少しのがたもありません。ふたの内側には明治43(1910)年1月の日付と幸吉さんの墨書が鮮やかに残っています。ですからこの箱はこの正月でちょうど100年となります。 あとまだ100年は大丈夫でしょう。


 この山永家の墓は平田の墓地にあります。幸吉さんはここに入っておられ、右の法名塔に名前が刻まれています。
 山永家の家系
   山永幸吉→熊太郎→朝一→知→徹

2010年1月4日月曜日

金比羅さんの木札

 時は維新の明治4年(1871年)12月、四国は讃岐の金比羅さんに詣でた、口石の3人。

横田昭さんのひいひいじいちゃんの安平さん、友田宮司さんのご先祖の千蔵(ちくら)さん、そして山永知(さとる)さんのひいじいちゃんの浩吉(こうきち)さん。

 自動車もなければ鉄道もない時代、何カ月もかけた長道中、その疲れも、ものともせず、一心不乱にお祈りし、二夜三日の祈願が通じ、お札を貰って帰ってきたというのがこの金比羅さんの始まりであります。


  (横田家に伝わる金比羅さんの木札)

 それから今年で124年目この春のお祭りには旅回りの役者一行の芝居がかかったり出店も出て賑いを見せていました。戦後は、青年団の若者が中心になって演芸会を行っていましたが、最近はPTA、子供会、消防分団、婦人会などの皆さん方のご協力で演芸会を行うようになりました。


 というのが平成7年4月10日(とおかの日曜日)の演芸会当日に配った口石金比羅さんの由来記です。上の写真の木札(約1メートルX20センチ、厚さ2.5センチ)を見て書いたものです。

 写真では文字が読めないと思いますから書き記します。真ん中上から下に

 金刀比羅宮奉二夜三日祈祷家内安全守護攸


 両側上部に 明治四年十二月吉日  下部に 本宮社務 と書かれています。


 明治4年といえば廃藩置県の年で、明治5年に汽笛一声新橋を日本最初の汽車が走った年です。田舎はどんな状況だったか想像できませんが、金比羅さんまで行くとなればまとまったお金がなければできなかったことでしょう。


 現在、四国の金比羅さんの本宮で出されているお札(大90センチ)の写真を添付しますが、日付は入れてありません。




2010年1月1日金曜日

はじめに

九州の西の端


長崎県 北松浦郡 佐々町


その一集落 口石町内会(20~30年前には口石部落と言っていた)

写真は建設中の口石町内会集会所(約80坪)は今年3月に完成予定

佐々町は佐世保市と合併するものと思っていたけど、住民投票で当分は合併せずに単独を選びました。その中の口石町内会は戸数330、人口1200人ばかりのもともと農村地帯の集落です。

この集落にも小高い丘の上にどこにでもある金毘羅さんの祠があります。そして明治4年の日付が入った木札があります。毎年4月と9月に集落のお祭りを行っています。この祭りは地区によっては3月や10月に行われるところもありますが、昔から10日に行われていました。

このことから聴力が悪い人・・・耳が遠い人のことを「金毘羅さん」といっていました。すると私も子供のころから左耳を悪くして左側からの声に反応せず金毘羅さんということになります。

そんなこともあり口石金毘羅さん、町内会の記念碑や昔のことを少しづつ書いていくことにします。

(注)10日は「とおか」 耳が遠い人のことを長崎県の方言では耳のとおか人と言います。