2010年7月26日月曜日

昭和8年の議事録(吉永力三郎さん再び)

   昭和8年1月7日初総会協議決定

1.決算報告区民一同承認通過

1.須崎里道延長に1戸1人宛の加勢承認

1.山入の後の雑木分配方協議人に委任す その見分時半坂焼松を見て吉永力三郎氏に落札金2円60銭にて定むるか延期す

1.評議員改選にて 大浦信一 尾崎九蔵

1.口石区内の里道に砂利石役場に請求を区長に頼む

右之通り承認を受たり

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★ 吉永力三郎さんに関しては平成22年2月22日付の本ブログ、伝説の力持ちの項ですでに紹介していますが、平成元年に天寿を全うされ93歳で亡くなられて下の写真の墓に入っておられます。焼松とはどんなものかわかりませんが、木挽きだった吉永力三郎さんが落札して板にしたものと思われます。会計記録では3月14日付けで2円60銭の入金が「野坂焼松代」としてあります。

 吉永さんは後には江迎町潜竜の炭坑に移られ、労働組合の組合長までされたそうです。墓地は生まれ育った口石の平田にあります。

                   (吉永家の墓)

2010年7月19日月曜日

昭和7年の議事録(婦人会に補助金出る)

   昭和7年1月7日 初集会協議決定
1.決算報告区民一同承認通過
1.婦人会に補助の承認あり
1.寄留人に対する件 貸家主より家賃月極めを一時受け取りにてその家一代を許すことになる但し10円以上なるも10円とす但し家建てをなして寄留の場合は10円とす
1.保安会長は区長兼任となる
1.半坂焼払のあとに雑林(造林?)すること
1.区長年俸40円となす
1.会計新設 会計の給料年15円とす
1.区長及び代理改選 評議員改選 2名
1.区長 横田安之助
1.代理 森田祖助
1.上の部 森田喜市(正之さんの祖父)、中講 志方重太郎 
1.会計 池田 新
右の通り承認を受く
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★ 下の写真はこの年、中講(正確には下中講)の評議員になられた志方重太郎さんの子孫の方が住んでおられる所の井戸と水神様が祭ってある庭です。ここは国道(204号)に面していて、キャードバタ(街道端の事でしょう)と呼ばれていましたが、さすがに最近いう人はいません。江戸時代の平戸街道もこの家の所を鋭角に曲がっています。

2010年7月12日月曜日

昭和6年の議事録(芝居小屋落ち目か)

  昭和6年1月7日協議事項

1.決算報告 区民一同承認得通過

1.線路掃事(掃除のことか)当分せざる事に決定 

1.森田マス、分家区入り相談あり承認を得る

1.高木亀四郎氏、坂本藤三郎氏、寄留の相談あり、一同承認を得る


1.役員改選の結果 下講 横田十三郎氏(隆亮さんの祖父)★★ 中講 末永勇七氏(光男さんの祖父)当選

1.芝居小屋区内金の協議、小屋仲間より相談あり、金20円を10円と定む★★★

1.硝子、焼物捨て場設置する事 但し衛生組合にて

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★ 昭和3年に酒1斗2升貰って春秋区で手入れする契約を結んでいました。ところが、この年「線路掃除を当分せざる事」とあるのは炭坑が酒を出さなくなったのか、酒の増量を要求したのかどちらかでしょう。

★★ 写真はこの年下講から評議員に当選した横田十三郎さんの所の井戸です。左側に水神様を祭って、昔の庭の一部がきれいに整備されています。現在横田さんの家族は佐々の中心街で割烹旅館、ビジネスホテル、グループホームなどを経営されています。屋敷跡は広く2階建ての集合住宅を4棟(計18戸)建てて貸しておられます。

 口石には古い井戸がかなり残っています。数年前、町内会の文化祭に古井戸の写真を出しました。その時調べて回ったら、57か所に井戸がありました。ほとんどの井戸は現在も現役として活躍しているのに驚かされました。さすがに飲料水として使われているところはありませんが、風呂水や雑用水として使われています。

★★★ 芝居小屋の契約は昭和2年に、向こう2年間は年間20円とし、その後はその折りに決めるとなっていたので、この年20円だったのを10円に変更しています。この「口石劇場」は大正8年にできたのですから、10年を過ぎて、はじめの頃のようには客が入らなくなっていたのかもしれませんね。後になって小浦へ移転したいきさつもありますから。


2010年7月5日月曜日

昭和5年の議事録(旱害や大風に見舞金を出す)

   昭和5年1月7日協議事項
1.決算報告区一同承認を得通過
1.炭坑調査費立て替え金は区協議により、被害者受け入れ金より払い込む事。
  右金は無利子の事
1.森田吉三郎氏区入り相談あり、承認する
1.大浦宣一死去のため出夫女で一人前にする事
1.主婦会組織として貯金する事
1.寄留金は評議員に一任する事
1.区役員改選の結果
       区長       池田 新      
       区長代理    横田安之助
       評議員 新任 山本藤蔵
                 松田幸四郎
             新任 藤永半兵衛
                 大浦信一

     昭和5年7月
1.野坂免岩下草場返納   宮本新三郎
1.近年稀れなる旱害あり、義捐金15円50銭支出する。昭和4年度分 
1.大風被害見舞金として20円支出。昭和5年度分 ★★
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★ この年旱害や大風の被害が出ていますが、口石の場合義捐金や、見舞金を出す方で、貰っていないのが幸せです。昭和30年代から40年代にかけて台風や大水害に長崎県一帯は襲われましたが、口石の場合は少しばかり高台になっていて、浸水の被害は全くありませんでした。当時被害甚大な時にほとんど無傷でした。
 
 その時、旧北松南高校……現在の清峰高校……は川のそばにあったため完全に浸かってしまいました。長崎県は再起不能と思ったのでしょう、高段(現在の千本公園一帯)を買収して新しい校舎を建設する事にしました。ところが地元は駅から遠いという事で反対して、元の場所に新築して、堤防も立派なものが作られ、その後決壊する事もなく順調に推移しています。県が買収した土地はその後佐々町のものとなり、今はグラウンドや公園になっています。


 (写真は現在の清峰高校の玄関です。つつじの植え込みの中に平成17年の夏に初めて野球部が甲子園出場したときの記念碑が見えます)

 昭和5年の会計記録では、5月6日に旱害義捐金補助として25円支出して、10円は立て替えとあります。また同年の12月20日には「旱害義捐金、区長以下役員にて6円、力竹医院3円、湯浅50銭(会計立て替え支払い)」と詳しく書いてあり、9円50銭の入金が記されています。議事録の義捐金15円50銭とある中途半端な金額は、区の会計から支出し、役員と病院、商店主からのカンパで9円50銭、合わせて25円を義捐金として出されていますが、ややこしい割には出した相手が全く分かりません。

★★ 次の大風の見舞金については何も記録がありませんので、区の会計からは出していないものと思われますが、なぜ議事録に書かれているのか不思議な気がします。

 旱害義捐金は昭和4年度分とあり、大風見舞金は昭和5年度分と議事録に明記されていますが、会計の記録には昭和5年の分に旱害義捐金だけしか記入されていません。              
(清峰高校玄関前には昨年春選抜大会で全国優勝した時の記念碑です。昭和42年の大水害で水浸しになった高校が全国優勝を果たすとは夢にも思っていなかったでしょう)