2010年2月22日月曜日

続・庭開き記念碑

(4)コンクリート段について

 前々回、山上広場まで189段の狭い階段をまっすぐに登ると書きました。
 下の写真を見てもらえばわかりますが、道路が舗装されてから(昭和50年代)最初の3段はコンクリートで作られました。その上1段だけが砂岩の階段があり、その上に横幅およそ120センチ、断面は15x25センチばかりのコンクリート製の階段が10段ばかり続いています。このコンクリートは永年の風雪にさらされて表面は小さな玉砂利が浮き出ています。 

  その上には コンクリート製の階段と砂岩の自然石・・・鑿で加工した跡が分かるものとが入れ混ざった状態になっています。

 この階段の中段(下写真)まで砂岩の階段とコンクリート段が入れ混ざっています。上に行くほどコンクリートの段は少なくなります。数えたら全部で50個がコンクリート製でした。

 自然石を加工して並べたものの不足した分をコンクリートで作ろうということになったのでしょう。最近はコンクリートよりも自然石が高級品ですが、当時最新式のコンクリートを使うということは大変素晴らしいことで、型枠に入れれば同じものがいくらでもでき、大きさ、形も思いのままで、永久に壊れないものだと信じられていました。

(5)伝説的な力持ち二人

 このコンクリート段は口石と小浦の境にある富田橋(通称とんだばし、注1)を架けるときにここで作られたそうです。口石金比羅さんまでは直線で約700メートルの距離があります。今ならトラックで運べば何のことはありませんが、荷車も狭い道では使えなかったのでしょう。当時の青年さんたちは、担いで運んだそうです。普通の人は二人で1本を運びました。

 そのとき、山永正雄(山永敏雄さんの祖父)さんと吉永力三郎(大浦国昭さんの祖父)さんの二人は、それぞれ、1本づつ担いで運んだそうです。

 山永正雄さんは二男だったけど、その年の1月の口石部落の集会で、分家することを承諾されたと、当時の議事録に記載されています。独立することで張り切っておられたのでしょう。

 吉永力三郎さんは当時樵(きこり)をされていたそうですが、その後、潜竜に移られたそうです。平成元年に亡くなられましたが、平田墓地に眠っておられます。

 このコンクリートの塊を一人で担いで行こうという気になる人は、現在では考えられません。ものすごい力持ちだったのですね。

 階段の上部(下写真)付近は自然石ばかりが使われていて、両側のつつじの木もよく茂っています。ほとんど通る人もいないので石段は苔むしています。

(注1)富田橋:通称とんだばしは、 現在、西九州道路(注2)建設のため橋梁の付け替え工事が行われています。

(注2)西九州道路:本名は一般国道497号線、住民は高速道路と呼んでいます。来年3月には佐々ICまで開通予定。自民党政権の時から佐世保ー佐々間は料金0円。民主党政権になって先日発表されたのでも無料高速道路になっています。金を取ったら誰も走らない過疎地の自動車専用道路ということでしょう。

2010年2月15日月曜日

庭開き記念碑

 口石金比羅神社一帯にある記念碑で最も古いものが これです。この項は大浦正雄氏(故人、大浦隆二さんの父)および寺田浦一氏(故人、寺田潜氏義父)の話をもとにまとめました。

(1)文面


     庭開


  桜樹之記念


  コンクリート段


  大正十年十月十日建碑

 と達筆な草書体(行書体かも)で書いてあります。     

  当時口石小学校の校長先生だった人が揮毫されたと、大浦さんは話されていました。口石小学校の校長室に行くと歴代の校長先生の写真が掲示されています。第7代、大正10ー11年の校長先生は「大浦 浩校長」とありました(右写真)ので間違いないでしょう。


 記念碑に彫りこんだ日付は、大正十年十月十日と十が3個並んだおめでたい日を選び、除幕式をしたのではないでしょうか。金比羅さんのお祭りは4月と9月の10日(最近では10日に近い日曜日)となっているのに、あえて10月に記念碑の日付を入れたのは、語呂合わせのためと思われます。


(2)庭開

 当時の山上は石の小さい祠が祀られていたことと思われます。春4月には地元の人たちが弁当持参で上って来て、素人演芸会をやっていたのでしょう。時には旅回りの役者一行が来た時もあったそうです。出店も出ていたというのですから、当時の子供たち(もちろん大人も)は大いに楽しみにしていたことと思われます。

 秋には、神主さんたちによる「平戸神楽」の奉納が現在も行われているのですから、当時はもっと賑っていたことでしょう。日本刀の真剣を1本は口にくわえ両手に1本づつ持ってでんぐり返りをする「三本剣の舞」を見たときは驚きました。

 演芸会や、神楽の奉納をするための広場の整備を行ったのがこの「庭開」ということでしょう。


(3)桜樹之記念

 金比羅さん近辺には、何度も記念植樹がされてきました。大正10年に植えたのが「ソメイヨシノ」であれば、とっくに寿命は尽きていると思われます。現在下の段の広場、階段の横、そして頂上広場の周囲と桜の木はありますが、いずれも樹木に勢いがなく花も貧弱にしか咲きません。特に頂上広場のものは岩盤のために樹木が太ることもできずにいます。上写真は山頂広場と桜の小木ですが、いつ植えたのかはわかりませんが、数十年は経っています。


(4)コンクリート段 

 これについては次回にします。


 

2010年2月8日月曜日

現在の口石金比羅神社

口石町内会のほぼ中央にこんもりした山(下の写真)の頂上に口石金比羅神社の祠は祀られています。
山の上の境内に行く登り口は2つあります。
 昔からあるのは向かって左側、石の鳥居があるところの階段(下の写真)をまっすぐに189段登ればたどり着きます。ここは急な勾配のため階段の幅が狭くて、大人の靴では、はみ出て歩きにくいものです。最近ここを登る人を見かけたことはありません。
 向かって右側の登り口は「金比羅公園」の標識とステンレスの鳥居(下写真)があります。ここはなだらかなスロープになっているので大変登りやすくほとんどの人はここから登っています。この道は、浦おんちゃま(故寺田浦一さん)たちが老人会で作らした。と聞いたので昭和の40年代にコンクリートで固めて整備されたようです。

 登りあがったら広場になっています。右側の階段を10段と4段上った先に木造瓦葺の本殿(写真下)があります。この建物は新しく、昭和51年に建てられました。それまでは石の祠が野ざらしの状態だったそうです。
 建物の中には石の祠が3体あります。中央に「金刀比羅神社」右側に「宮地嶽神社」左手は「黒髪神社」です。   ( 下の写真)
 ここらには石燈篭や石の額だけのものや、それらの破片と思われるものなどかなりの数のものがあります。ほとんどのものが砂岩であるため、風化が激しく、刻まれている年代が読み取れるものは少なく、一番古い石燈篭でも昭和9年のものです。神社の境内ではよく見かける「力石」もあったそうですが、崖下に落としたらしくて、今はありません。

2010年2月1日月曜日

三人はどうやって四国まで行ったのでしょうか?

 明治4年に九州の西の端から讃岐の金比羅さんまで、かの3人連れはどうやって行ったのでしょうか。

 横田家に言い伝えられているのでは、3カ月かけて船で行ったそうです。それも小浦から伝馬舟を漕いで、3丁櫓だったのでたいそう早かったそうです。言い伝えということですから、否定することはできません。しかし、確証もないので、にわかには信じられません。そこで、いろいろ考えてみました。

 当時の交通機関はどうだったでしょうか、新橋ー横浜間を汽車が走ったのが明治5年、T型フォードがアメリカで発売されたのが1908年(明治41年)、ライト兄弟の弟が生まれたのが1871年(明治4年)ですから、汽車も自動車も飛行機も考えられません。歩くか船に乗って行くかのどちらかということになります。

(1)歩いた場合
 平戸街道を研究している人に聞いてみました。「佐々口石から半坂峠を越えて平戸街道を進み、彼杵の宿から長崎街道を行けば、小倉に着くのでそこからは、瀬戸内海を渡る船はいくらもいるので小倉からは船で行ったのでしょう」できそうですね。



(2)伝馬舟の場合
 片道およそ500キロ、往復1000キロ小舟の旅、12月前後の冬場の玄界灘を漕いで行ける日が半分、1日10時間(明るい間)とすれば時速2キロ強のペースを維持できれば可能ということになります。楠泊の漁師に聞いたら「舟に火床を作って船上生活をすれば安上がりに行ける」と強調していました。プロの漁師ならできるかもしれないけど、三人の仕事はお百姓と大工さんと神主さん、はたしてできたでしょうか。下の写真は小佐々郷土資料館にある「イヌコロ舟」といって漁師が寝泊まりしながら漁をした舟の小型のもので、これも3丁櫓です。


(3)貨客船の場合

 森の石松が船に乗って金比羅さんに代参したのがこれよりも11年前のことですから、ほぼ同じ時代ということになります。

 江戸時代平戸藩内からも船で伊勢参りや金比羅参りに出かけていた記録がいくらもあると松浦資料博物館の学芸員も説明してくれました。

 平戸郷土誌(大正6年の手書きの資料)によると、平戸ー田平ー江迎ー歌が浦ー楠泊ー佐々ー相浦ー佐世保間に定期船が通っています。その次の文面を紹介すると

「右定期船ノ外不定期船アリ。其ノ寄港モ一定セズ積荷ノ都合ニヨリテ寄港シ或ハ寄港セズ。此ノ航海ニ従事スルハ大阪商船、深川、尼崎ノ三会社ニシテ凡ソ隔日ニ上下航ス。而シテ是等ハ主トシテ貨物ヲ取扱フモノナレドモ旅客モ亦取扱ハザルニ非ズ」

とあり、寄港地は伊万里・呼子・唐津・博多・下関・今治・多度津・大阪などと記されていて、大阪までの三等運賃はおよそ4円となっています。

 加藤民吉で有名になった、佐々皿山で焼き物が焼かれていた江戸時代後半には、天草から陶石を積んだ船が皿山近くまで佐々川を上っていました。

 口石の正福寺では慶応3年(明治元年の前の年)に京都の本山に住職の法天上人さんが行かれたという記録が残っています。その時はこのような船で行かれたそうです。

 九州から四国へ渡るのですからいずれにしても、船に乗らないと行けません。読者の皆さんはどうやって行ったと思われますか。

       正福寺 11世  法天上人の書付