2011年2月28日月曜日

昭和30年度の議事録(ころび石のがけ崩れ)

  昭和31年3月20日 總会


部落会長 山本藤蔵

副及会計 大浦正雄

評議員

 森田博介 山本吾一

 寺田浦一 末永四郎

 志方健一 大浦惠夫

右の通り決定す


昭和30年度行事

 5月5日 半坂道路作りをするため町役場より見え、部落役員と共に現地調査をなす

 2月2日 測量終わり、4月1日より着工の運びとなる

 4月15日 大雨降り、宮本新三郎宅裏崩れで、評議員会をなし、部落より後片付けに応援する事を決議す


 昭和31年3月4日 公会堂裏及古堂の橋架けを部落一同にて作成した

橋架けに付き、材料を大浦信一氏 横田健雄氏より寄附を受く


1.出不足は1日200円とし、女の出は8合とす


2.死亡者の差し合わせは40円とす

 生後1年以上の時、1年以下100日まで半葬式とす

3.公民分館を設立す

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★ 山本(邦夫)さん宅付近の地名は小字で龍開といいます。そのことは、先々週のこのブログで書いていますが、この年の4月に裏山ががけ崩れを起こした宮本さん宅付近は「ころび石」と呼ばれているそうです。山本さん宅は川(木場川)のそばで、宮本さん宅はすぐ近くですが、山際です。今から10年ほど前の平成になってからも裏山が崩れて大変難儀をされました。この時は避難する事もなく、かなり大がかりな工事が行われて、現在は立派に修復されています。



 昭和30年の水害の時は、納屋は崩れ、井戸も埋まってしまったそうですが、部落の人たちの応援で土砂は取り除かれ、井戸水は今も使われています。



 小字ではないそうですが、地名として「ころび石」という名が使われているということは、かなり昔から裏山のがけが抜けていたのではないでしょうか。それにしても大事に至らない程度の山崩れだったのは不幸中の幸いというではないでしょうか。



2011年2月21日月曜日

昭和29年度の議事録(観音堂建設)

 昭和29年7月28日

  口石観音堂材料切りを区有林より3日間切り倒しトラックにて古川、横田製材所へ運搬し製材を始む

 8月3日観音様移転す、其の日斧立を始む

 8月22日観音堂立家始む、部落評議員及び世話人出務立家す

観音建立の為め左の世話人を選出す

 横田安之助 大浦正雄 荒木泉 永安三七 藤永善七 力竹増太郎 末永勇七 藤永新 前川輝之 森田喜一  計十人

 8月27日観音堂横石垣積み始め8月31日完成す。同時に観音堂建立完成す

 9月12日観音堂落成式執行す。僧侶7人、来賓として町長、署長其の他多数。余興として口石区民演芸を催す。


 11月15日公会堂畳表替え全部終了。尚、上敷8枚旧畳にて二枚重ねにて作る



 昭和30年3月20日 総会

  30年4月より班長を廃し、評議員を4名選出し区の評議を依頼し、其他に部落長、副部落長と共に6人当たらしむ

 評議の手当左の通りとす

  年俸各人当壱千円宛とす

 尚、協議事項は左の通り決定

一、森の木道路延長、半坂道路申請

一、金比羅神社参拝道路 上下共

一、補助金増額年1000円を2500円に、青年会及び婦人会共同額

一、公民館組織創立の件

    右

部落長

   藤永善七   40

副及会計

   森田朝一   46

評議員

  1,2班より 藤永 新

  3,4班より 力竹増太郎

  5,6班より 山本 森

  7,8班より 横田安之助

 右の通り決定す

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 この年建設された口石観音堂の現在の写真です。口石町内でも特に下場の人によって良く管理されています。

 同時に築かれた石垣も苔むしてきましたが、立派にしています。下写真の右奥に見えるのは、口石小学校の校門です。この観音堂の場所で江戸時代、キリシタンを探すための踏み絵(やかん転ばしとここでは言っていたそうです)が行われたと郷土史家に聞いたことがあります。








 

2011年2月14日月曜日

昭和28年度の議事録②(龍開新道線)

 昭和28年4月より29年3月末日迄に

部落内龍開(りゅうがい)新道線開通落成す

 延長479メートル 工費及び人夫等安定所事業に付き不明

神官友田義衛氏を迎え地鎮祭を3月30日になし落成式3月31日

 佐々安定所出張所長 森田澄太郎

 土木測量士   濱野隆雄

 人夫頭      大館良助

 案内客 地主 横田安之助 宮島広一 藤永勝之 山永正雄 福田庄平 志方重太郎 松田実 森田喜一 松田新一 末永岩雄 

 役員及び部落議員 山本藤蔵 山本吾一 森田與七 宮本新三郎 藤永新 久家六蔵(当時の町長) 神田利秋 宮崎健二郎 前田俊夫 鴨川 田中 松下広 竹村幸平 林久米太郎 池田信一 小崎政太郎 宮村宇一郎 坂本役太郎 森田澄太郎 濱野隆雄 大館良助 松尾泰作 大浦正雄

 御祝儀

佐々町2000円 佐々町議会1000円 林久米太郎500円 (松尾泰作 森田喜一 宮本新三郎 藤永新 松田実 松田新一 藤永勝之 宮島広一 志方重太郎 横田安之助 大浦正雄 山永正雄)1200円

清酒1升 山本吾一

右土地代 田畑共坪500円也 但し福田庄平氏分600円也

 土地代金差額に付き当時御世話人幾多世話起す当時松尾泰作氏自費を持て福田氏を承認させ道路起工さす 部落役員区民に伝え松尾氏に対し財産組合基金より一時借用致し支払す(8900円)

 部落費30円を本年より40円とす 葬式差し合わせ金40円とし満一ケ年ごとに惣会の時に協議す

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  この道路は現在も良く使われています。国道204号線のデイリーストアの所から佐々病院の方へ行く、木場川の堤防の道と言ったらわかりやすいと思います。
  上の写真は国道(手前の道)からの分岐点です。はじめは狭くて車の離合は出来ませんでしたが、最近になって、途中に離合場所が作られ使い勝手が良くなりました。下の写真は、口石側から見た龍開線です。左側に西九州自動車道(無料の高速道路)の高架橋の建設が進んでいます。今年の4月には開通するとのことでしたが、途中に予想外の硬い岩盤が出たとのことで開通が遅れそうです。




2011年2月7日月曜日

昭和28年度の議事録①(植樹記念碑)

 昭和27年7月20日 

森田貞夫 松田光春 横田昭 松澤秀己諸氏発起人になり植樹記念碑を建立を思い立つ。松尾泰作氏を始め松野與志晴 森田治吉 淡田清 横田恵助 荒木義和氏の寄附等あり同年9月8日に終了す

 植樹記念碑に係る石工は佐世保市岳野免 森田保氏を起用す

 右筆者は松田幸四郎

 前年度の申し送りに依り各班長の協力求め警鐘台修理費の寄附を受け14000円を消防団に支給す 猶又、部落費より10000円警鐘台建設資金とし親和銀行に定期す

  昭和29年3月21日 惣会

 前年度決算報告す右承認す

     役員選挙

部落長  松尾泰作 21票

代理会計 山永朝一

 惣会決議により町より部落交付金として24376円有り内18000円と部落より2000円計20000円を部落長に支給す 右承認す 猶又 部落支給は会計2000円 班長750円

 同29年度より役員給料

  部落長   20000円

  代理会計  4000円

  班長     1000円

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 この年建てられた「植樹記念碑」は頂上の金比羅神社境内ではなく、登り口のステンレスの鳥居のすぐ近くにあります。(下写真)


 ★発起人でだだ一人お元気な松田光春さん(現在の姓は山下さん)にこの時の話を直接聞くことができました。写真は山下光春さん。新光電気(株)の会長さんです。

  そもそもこの記念碑を思い立ったのは、消防団の飲み仲間の話から出てきたそうです。記念碑の石は木場川の森の木橋の所から6人がかりで運んで来たとのことです。車などは使わず、丸太2本に直径1メートルの石をくくりつけ担いで、およそ1キロの道のりですから若者とはいえものすごく苦労したそうです。

 この記念碑の揮毫をされた松田幸四郎さんは光春さんの父親で、達筆ということで正福寺の記録係もされていたそうです。このときの議事録の筆字もこの方の文字と思われます。