2010年5月31日月曜日

昭和2年の議事録から(橋工事)

    昭和2年4月10日 森木橋竣工落成す (4月10日落成式は金比羅さんのお祭りの日に行われています。今年の口石集会所の新築落成式も4月11日の金比羅さんのお祭りに合わせて行いました。)
  当時区役員

 区長     藤永 藤七(雅之さんの祖父)
 評議員    森田 祖助(謙介さんの祖父)
         森田 源八(朝一さんの祖父)
         松野 寅市 (強さんの祖父)
         池田  新  (新治さんの祖父)
 区長代理  横田安之助(憲治さんの祖父)  
 触役     末永平四郎
(茂子さんの義父)
         山口 市三 (キヌ子さんの義父)
 大工     淡田 友市 (邦夫さんの祖父)
 鍛冶屋    真藤峯太郎
 石工     大浦  清  (芳の浦におられた)
 設計主任  池田 勇平(相浦へ転出された)

            以上 
  当橋実費計上
金366.75円   鉄筋、セメント、釘金具、セメント2千樽
金 56. 00円   砂利4坪、坪14円宛
金 84.90円   松板56坪、木挽賃
金 38.80円   砂料、唐津砂1坪5合
金  1.70円   釘代
金  6.20円   砂利テボ5カ代
金  7.50円   俵・縄・莚代
金  6.50円   トロ及車借賃
金 12.00円   写真料
金 25. 00円   石工賃
金 20.00円   鍛冶屋賃
金 50.00円   大工手間料
金  8.00円   親柱4本代
金 15.80円   石垣積雇人賃
金  5.00円   コンクリ道具借賃
金  1.50円   砂フルイ代
金 27.66円   油代及村委員立会、通信料其他
計683円31銭也

   開通式 雑費
金 60.00円   酒6斗5升代(この酒の量には驚きます)
金 25.00円   折漬25人前
金 14.85円   肴代
金  3.00円   神官御礼
金  5.00円   芝居小屋料及薪代
金 15.50円   播き餅代
計123円35銭也

合計金806円66銭也


  区民人夫 298人5合役
  森木橋に村より補助金
金473円26銭也 之は三分の二を村にて負ふ。区は三分の一を負て、橋は村に寄附す
金 19円   招待人御祝 




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 写真の橋は現在の「森木橋」です。道路は半坂(はんざか)線と呼ばれていますが、江戸時代には「平戸街道」として使われていました。その前の戦国時代には半坂合戦などもあり、この付近の大動脈だったようです。 私も佐世保への朝の通勤には国道の渋滞を避けるためによく使いました。狭いけれども車での通勤に使う人は結構いました。

 現在の橋はこの時建設されたものではありません。大きな鉄骨が使用されて、車両の通行のために作りかえられているようです。何年に架けられたか記入はありません。この川は木場川です。

 橋の建設については、几帳面な人がしっかり記録され、当時の物価などよくわかります。また、大工、鍛冶屋、石工、設計主任はすべて口石の人です。当時の戸数は80ばかりですが、街道端ではこれらの人が商売をやれるところだったようです。

 会計の帳簿にもくわしく記録されていて、確認できました。村山の立木を売却して資金を作り、佐々村から2/3の補助金をもらって、作業には区民がこぞって参加して完成させた様子がうかがえます。したがって開通式のお祝いには、1升瓶で65本もの酒を飲んでいるのですからすごいものです。(余談)今は聞きませんが、1升口、2升口と言う人が口石にはごろごろいたと有名です。昭和50年に口石に引っ越した時、近所の人から口石には有名な大酒飲みがだれだれの3人がいて、道端に寝ているので夜、車を運転するときは、引かないように注意しなさいと最初に注意されました。後日そのうちの一人を道のはたの溝で寝ているのを見かけたので自宅まで連れて行ったら奥さんには、またかと迷惑がられました。今は3人とも亡くなられていますが、その中の一人は女性でした。しかし、男性の大酒飲みが多いのは圧倒的です。そのせいか口石の男は早死にする傾向にあり、敬老会の参加者の男性は他の町内に比べて極端に少ないものです。

 会計帳簿には日付入りで記入されているので、経過がよくわかります。

2月21日 立木の入札、落札の1割50円入金

3月8日 橋の材料購入のため個人から200円借金

4月6日 立木売却の残金として400円入金

4月10日 橋の開通式(落成式)

4月11日 806円66銭全額支払う(落成式分含む、会計係は二日酔いにはならなかったようです)

5月10日 佐々村役場から473円26銭の補助金をもらう

5月20日 出不足金徴収56.5円(例年は12月)

12月20日 個人からの借金200円に25円の利子を付けて返済する。

 橋建設に関しては山の立木が500円で売れるという事を原資にして橋の建設は進められていたようです。3月末日支払いの500円で契約していたものを、1割値引きして6日遅れて入金したのは、足元を見られてやむを得ず負けたのではないでしょうか。当時、口石区では区民を対象に金貸し業をやっていました。利息は1カ月で1.25%ようですから、200円の10カ月で25円の利子となります。資金繰りは自転車操業的にも見えますが、貸付金の額が昭和2年当初3000円ばかりありますから、取り立てれば何とかなるという事ではないでしょうか。

         

2010年5月24日月曜日

昭和2年の議事録から(会議録)

 大正15年は12月25日で終わり、その日から昭和元年になりました。したがって、昭和元年は1週間ほどしかありません。 
 大正時代の議事録は終わり、昭和になったので、これを機会に数字は算用数字に改めカタカナも平仮名に書きなおします。原文になるべく忠実にという気持ちもありますが、もともと縦書きのものを横書きのブログに表すのですから無理がありました。わかりやすいをモットーにします。
 この年は筆跡から3~4人の人が記入しています。鉄筋コンクリートの橋を架けたり、倉庫を新築したりしています。これらについては後篇に回します。
議事録原文を朱書き にします。
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   昭和2年1月7日 初集会 於て
1.大正15年度清算報告
   右証任を受く
2.森木(もりのき)橋掛替の件決定。仔細、評議員之を定む。
3.越木岩(こしきいわ)山林に松苗植付の件
4.尾崎家に居らる産婆寄留の件半額に決定、衛生講丈に入る事
5.芳の浦土場貸賃の件
6.大浦栄作家正夫(正雄の間違い)入営の為、触出合、其の他協議等出夫無きも差し支え無し、但女を出す事
7.芝居小屋契約□□(2字判読できない)す。向2ケ年間1ケ年20円にて、昭和2年、3年迄で以後は其の折り契約す
10.野坂は立松売却の事に決定
       以上
 右詳細は区長、評議員にて之を定む
(なぜ7の次に10が来ているのかがわかりません。後の方で「1月7日追加」として1項だけ記入があります。それにしても2項足りません)

   昭和2年2月14日 於 協議会
1.里道修繕の件。区民2日宛一人前酒代20銭宛支払う事。女は7合の事。1日出不足は1円の事
2.区有地松苗植を2月21日区一般、午後野坂の松立木入札の事

   昭和2年2月21日 口石区有地半坂山林入札
 一金代金450円  落札者 中里村 土井氏

   契約の要件
1.口石区有地半坂山林・松及び雑木一切目下境界の通り、但し杉は除く
2.敷札に充ざる時は当区係員協定に依り之を定む
3.落札者は本日、落札額の一割を入れ契約し、切掛の際は全額支払う可者とす。若し3月中に切掛らざる時は3月末日迄に全額支払う事
4.伐採期間は昭和3年2月28日迄とす
5.本日の酒代は10円とし、6分を当区負担し、4分落札者負担とす

   3月1日
里道修繕開始す。村より砂利代とし187円補助あり

   1月7日 追加

1.分家なしたる者は1ケ年内に区入をなす事。今年より2ケ年は20円宛出の事

   昭和2年4月13日 区総会

一、森木橋の決算報告 承認済み

一、里道設備報告 右同

一、区に於て倉庫建設一般萬上一地(満場一致のことでしょう)承認す。種々設計は役員へ委任す

一、松の上木売却す

   昭和2年7月12日 触の祈祷をなす

一、田植賃は前年迄となす

      男 1円10銭      女 80銭  と定む

   昭和2年7月24日 総会

1.、橋の古材売立件

   買人  松田藤吉氏

代 4円也

2.越木岩の草場入札件

玄米1斗買  福本元三郎氏

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★ 産婆さんの寄留代を半額にまけています。衛生講だけに加入させるという事は、念仏講には入れてもらえなかったということでしょうか。



★★ 区有林(現在もあります、約1町歩の広さ)の立木を売却しています。松や雑木一切(杉は除く)を1年がかりで切るぐらいの量ですが、450円というのは本当に高いものですね。当時1日の日当が1円、米1俵(60キロ)が約10円の時ですから。

 ここのところは会計帳簿に詳しく書かれています。2月21日土井氏より内入金50円とありますので、立木売却の落札額は500円と思われます。3月末日までに全額支払うという契約になっていますが、少し遅れて4月6日に土井氏は400円支払って終わりになっています。どういう話があったかは今となってはわかりませんが、交渉の末450円と値引きしたのではないでしょうか。議事録には、はじめ500円と書いて、後から線を引いて消し、450円となっています。

   (上の写真は現在の口石町内会有山林入り口付近)

 落札者と村役さんたちが契約の後、10円も出しあって酒盛りをしているので大きな契約だったようです。会計帳簿では、同日、売買の時の酒代として8円70銭計上されていますが、1月29日山を見に行った時の酒代も含まれています。当時木材は建築資材としてだけでなく、木炭を焼けば現金収入が得られたのでしょうね。

 落札者、中里村の土井さんの子孫の方に会って話を聞いてみたくなりました。

 上の写真は工事中の西九州自動車道(佐々ー佐世保道)です。写真の中央奥の山手に昔の村山、現在の口石町内会所有の山林(約1.2ヘクタール)があります。工事中の西九州自動車道がすぐ近くを通りますが、少しもかかる事がなく、手入れすることもなく荒れた山となっています。近くには元町長の所有林が高額で買収されたそうです。

★★★ 道路修繕に砂利代名目で、187円も佐々村当局から補助金が出ています。現在はいろんなものにたくさん補助金が出ていますが、議事録の中に補助金が出てきたのはこの年が初めてです。

★★★★ 橋を架け替えた時、古材を売却しています。材木は大事に扱っていたようですね。

2010年5月17日月曜日

議事録7(大正14-15年)葬儀具を作る

 大正拾四年一月七日 初集会 協議

一、協議員改選ノ件
      左記者当選ス
           森田 祖助
           藤永 東七
           池田 勇平

(以上が大正14年分の記録です。二つ折りの半紙の片側だけの1ページだけしか書かれておらず、折り返しの次のページには、大正15年の記録が書かれています。途中から大正14年の記録を「写」として大正15年になってから記入されています。)

 大正拾五年一月七日 初集会協議事項

区長手当 年額 金五拾円也
区長代理手当 年額 金拾五円也
評議員四名ニナス手当一人前 金六円也
区長以下改選ニテ左記者当選ス
       区長   藤永 東七
       代理   横田安之助
       協議人  森田 祖助
             森田 源八
             松野 寅市(強さんの祖父、桶屋)
             池田  新

大正拾五年四月九日 写
 大正拾四年七月五日 村祈祷ノ時協議事項
一、村祈祷ハ区長、触役ノミ出テスル事。御守ハ友田社司ノ請負ノコト
二、田植賃ノ件 男一円拾銭、女八拾銭ト本年分定ム
三、岩下原野一部 宮本新三郎氏ヘ玄米五升ニテ当分貸ス事ニ定ム
四、ゴーシギ草場入札ノ件
  玄米一斗二升、落札者 藤永栄三郎氏
、(五の間違いか)口石校児童係、森田祖助、池田新両氏ニ委任ス

   大正十五年四月十日 協議
一、越木岩山林、是迄、藤本藤太郎氏ノ所有地凡ソ壱反歩余リ、代金四十五円ニテ区ヘ買受ケル事ヲ承認ス
二、葬儀具ヲ区中、四講ニテ負担シ区用ヲ以テ、葬儀具倉庫ヲ作ル事ヲ承認ス。葬儀具ハ、藤永半兵衛(知行さんの父)氏ニ任ス
三、畳ノ表替ヲナス事ヲ承認ス

一、四月二十八日佐々村役場ヨリ、大正拾四年度公会堂校舎貸料、九ケ月分月、六円宛、計五拾四円受取。畳表替料金五拾壱円、運賃五十銭、計五十一円五十銭支払

 大正十五年九月一日 協定
一、葬具置場及ビ葬具金細工作ヲ区用金ヨリ出シテ造ル事。各講ヨリ一戸ニ付六十銭宛集メタ。葬具被損ナシタル時ハ、其講ヨリ修繕ナシ置ク事。監視人ヲ置ク。葬具ハ施主ヨリ五十銭宛出ス事。他人ニ貸シタル時五円ト定ム

 大正十五年七月五日
田植賃ハ 男 一円十銭
       女   八十銭
越木岩草場入札
一、米壱斗六升    末永勇七

   大正十五年十二月十五日 協議事項
一、消防小屋番及、葬具小屋番ヲ福本元三郎氏託ス。給料年額三円ノ事
二、真藤猶七氏野坂尻ニ有ル小道ノ払ヲ相談ニ依リ許ス

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★ 大正13年までの田植えの賃金それも「女」の分が85銭だったのが、この年から5銭値下げされて80銭になりました。労働力に関しては女性は男の7合(70パーセント)と見られていたようです。決めたのは男だけでしょうから、田舎にも大正末期の不景気の影響が表れたのでしょうか。

★ この年口石でも葬式道具を作り、格納庫も作ったようですね。しかも、管理人まで決めて、壊したら修繕することまで取り決めています。
 これを行っているのは「念仏講」という組織です。現在も形だけは昔の通りあります。





 上の写真は昭和60年に近所の お婆さんの葬式の時の野辺送りの様子です、2月15日のブログで紹介した寺田浦一さんの奥さん寺田レンさんのお棺を運んでいるところです。写真の中心に天蓋の付いたリヤカーが口石町内の念仏講4講で使っていたものです。現在はもうありません。



 口石の念仏講は上、上中、下中、下講の4講で出来ていますが大正末のおよそ80世帯のころと、全く同じです。しかし、現在は400世帯を超えていますが念仏講の加入者は59世帯だけが加入していて、葬式がある時の連絡だけを行うことでかろうじて組織が保たれています。(寺田家も我が家も上中講です)



 この大正15年に葬儀具が作られています。金銭出納帳(当時は金銭出入帳)に葬儀具作製にかかった費用が詳しく書かれています。上の写真のリヤカーは当時の葬具とは思われませんが、お年寄りの話では、当時棺桶を担いで墓地まで運び土葬をしていたそうです。その後、1キロばかり離れたところに火葬場ができそこまで運んで行くために車輪を付けたそうです。このリヤカーの構造は真ん中に丸い穴が開けられていて、丸い樽の棺桶を入れるためのもので、長方形の棺桶は凹のところへ入れるようになっていました。このリヤカーには長いロープが付いていて、遺族がそれぞれ引いて行きました。



 最近の葬式では葬儀社任せで、ずいぶん楽にはなりましたが、昔、野辺送りの行列が、田園地帯をしめやかに通る風情には趣が感じられました。 







2010年5月10日月曜日

議事録6(大正13年)芝居小屋繁盛

また議事録に戻ってきました

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 大正拾参年一月七日
 初集会ニ於テ、協議員改選 四名ヲ八名トナス
区長改選ノ結果左ノ如シ
      区長    横田十三郎
      代理    池田  新
      協議員   志方重太郎
             渡辺久米治(★注1)
             森田 源八
             森田定四郎(貞夫さんの祖父)
             湯浅 籾造(★注2)
             藤永 宇平(繁さんの祖父)
             荒木数太郎(里へ転出)
             横田奥次郎
   右協議ノ上、区長代理共九名分ニテ、金参拾六円ト定ム

  大正十三年三月一日
一、檜植ノ時、総会ニテ、志方兼吉(伝さんの祖父)氏他九名ノ常設芝居所ニ対スル区内金トシテ三ケ年ニ壱百六拾円トシテ、向三ケ年ノ契約トス 但、毎年十二月二十日ニ一ケ年分受入スルコト
一、坪田卯作 寄留ノ相談アリ

   大正十三年七月六日 村祈祷集会
一、田植賃金ノ件
      男 一円十銭
      女 八十五銭 ト定ム
一、ゴーシギ草場入札ノ件
     玄米二斗  落札者 渡辺久米治
一、吉山加六氏ノ寄留相談アリ
一、山口市蔵氏ノ寄留相談アリ (山口市三が正しい)(★注3)

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(注1)渡辺久米治さんは藤永家に入り婿のようになっているので、大正12年までの議事録では「藤永久米治」となっているけど、実際には「渡辺」のまま最後まで通されたそうです。

(注2)湯浅籾造(ゆあさ もみぞう)さんは後の山口酒店のところで何でも屋の商店をされていました。籾造さんの弟菊造さんは小佐々の黒石へ移られ石炭や魚の運送業をされその後、さらに臼の浦で料理屋・旅館などをされました。現在そのお孫さんが「きく屋」として瀬渡しと旅館を営業されています。


(注3)この年口石に寄留された山口市三さんは、湯浅籾造さんの養女クミさん(実父は友田樫太郎、隣の家に養女にいく)と、当時は珍しかった恋愛結婚をされて湯浅商店の跡継ぎをされています。、山口市三さんの子供は6人(男3、女3)、長男は戦死されました。二男博(故人)さんの奥さんキヌ子さんは最近まで「山口酒店」として営業されていました。三男の方は田平で酒店をされています。3人の娘さんがたは現在もお元気とのことです。


★ この年協議員を4人から8人に倍増したのはなぜでしょうか。区長代理と同じ待遇ですから何かわけがあったのではないでしょうか。一人当たり年間4円の手当は田植え賃金1日1円の時代、高いのか安いのかわかりません。


★ 口石にあった常設の芝居小屋は志方さんたち10人でなされていたようです。3年契約で160円とはかなり高いような気もしますが、当時娯楽は何もなかった時ですから相当に繁盛していたものと思われます。土地は志方さんたちのものと思いますが、芝居小屋は口石からの資金で建てられていたのかもしれませんね。

 上の写真は芝居小屋跡あたり今は住宅地になっています。ちょうど「なんじゃもんじゃの木(ヒトツバタゴ)」の白い花が満開でした。

★ この年3人の人たちが寄留を認められています。しかし、現在では山口市三さん以外の子孫の方は口石にはおられないようです。



             
                    

2010年5月3日月曜日

木場の炭坑について(2)

 今回は木場の炭坑で掘り出した石炭をトロッコに乗せて、佐々の海岸の貯炭場まで運んだ道筋と、「トロ押し」(トロッコを押す人のこと)で活躍した口石の人について書きます。

 下手な図を描きましたが、木場の炭坑で掘り出した石炭はトロッコに乗せて口石を通り四ツ井樋海岸の積み出し港まで運んでいました。木場川に沿って、およそ4キロぐらいのなだらかな下り道になります。


 上写真は昭和20年代にトロ押しの猛者として活躍された福本徳一さん(大正11年6月生まれ)が案内されたトロッコ道が現在は農道として使われているところです。ほかにも末永雪市さん(故人)も地元では有名な人です。この二人はトロ押しで鍛えて足腰が頑健でその後、九州一周駅伝大会の長崎県代表選手として活躍されました。


 トロッコ道の跡はかなりの部分、道路として使われていますが、木場の上の方は藪になっているし、四ツ井樋の貯炭場に近いところは宅地になって残っていません。それにしても昔のトロ道はこんなに広くはなかったと福本さんはつくづくと言っておられました。




 上の写真はトロッコ道と国道が交差していたところです。左上から石炭を積んだトロッコが降りてきて国道を斜めに横断していました。当時の国道は車の往来は少なくのんびりしていたとは言え、ここには旗振りがいて安全に気を使っていたようです。右の道路が国道204号線で、この車は佐世保方面に向かっています。


 写真の中央の狭い路地をトロッコは海岸目指して下っていきました。右側の2階建ての家は当時から、「ぼたもち屋」と言われていました。現在はまったく営業されていませんが、今も、ぼたもち屋と言ったほうが分かりやすくよく言われています。トロ押しの重労働をしている人たちにとっては、このぼたもち屋で、ぼた餅を食ったり酒を飲んだりするのは至福のひと時ではなかったでしょうか。

 最後の写真は建設会社の資材倉庫になっていますが、貯炭場跡です。トロッコの終点です。石炭を積んで下るときは、勾配が大きいところでは、車輪に木を押し付けてブレーキをかけたりしたそうで、楽に下って来ても、帰り道は空のトロッコを山の上まで押し上げなければならないので大変だったでしょう。1日に5往復するのが普通だったそうです。 右奥の橋は最近架かったばかりのもので、当時は海だったところです。木場川の河口で今はずいぶん浅くなっていますが、ここに運搬船が横付けして石炭を積み出していたのですね。