2012年7月16日月曜日

石橋(28)西川内橋

西川内橋(にしかわちばし)佐世保市小佐々町西川内(竹田川)
架橋:大正9年 橋長:15.5m 橋幅:3.5m

 佐々町から県道を小佐々町へ向かうと、この西川内バス停の所に古い石のアーチ橋が否応もなく目に飛び込んできます。小佐々町も今では佐世保市に合併しましたが、旧小佐々町内で唯一の石橋です。

 現在の県道は上の写真のように立派に整備されていますが、最初の県道はこの石橋「西川内橋」を渡り、干拓の堤防の道だったそうです。ですから、この橋はこの地方の幹線道路として整備されたものです。しかし、当時もそうでしょうが今も舗装はされていません。



 この橋も通称は「太鼓橋」だそうですが、今では石橋というだけでよくわかります。


 この橋が架かっている竹田川にも早春になると、シロウオが上ってきます。四手網を架ける足場の残骸が少し見受けられます。その河口に「大平炭坑」と書かれたコンクリートの標柱が立っています。左岸の道路は山の方へ登っていきます。昭和40年ぐらいまであったそうで、そこで働いていたという人には何人も会うことが出来ましたが、炭坑の遺構を写真に収めることはできませんでした。道も藪の中に消えて、たどり着くことができませんでした。

 口石金比羅さん物語として書き続けてきましたが、今回で終了いたします。来週からは「鎮信鳥居みて歩記」と題して新装開店いたします。http://inouejun1.blogspot.jp/
長崎県北(旧松浦藩内)にある江戸時代に建てられた石の鎮信(ちんしん)鳥居を取り上げていきます。よかったら覗きに来てください。

2012年7月9日月曜日

石橋(27)大加勢橋

大加勢橋(おおがせばし) 佐世保市鹿町町大加勢(大加勢川)

 鹿町橋と同じように石橋は取り壊されて、コンクリートの橋に架けかえられています。しかも、文化財として指定されていたものを、わざわざ指定解除までして取り壊し新しく橋を架けているのが不思議です。昔の橋の写真をまず。

 鹿町町の郷土誌でも、本名の「大加勢橋」よりも通称の「眼鏡橋」とあります。2連でもないのになぜ眼鏡橋といったのでしょうか。鹿町の太鼓橋と違って橋の上は水平になっています。次に現在の橋をお見せします。
 ほぼ同じところに護岸工事はされているけども同じように架けられています。幅は狭くて自動車はすれ違うことはできません。平成14年に竣工したと記されています。文化財を解除したのが平成12年ですから、2年ほどはもめたのかもしれませんね。現在の大加勢橋はなぜかもう一つすぐ横に大加勢川に斜めに架かっています。
 こちらが県道の大加勢橋です。ほとんどの車はこちらを通り昔の石橋のところの大加勢橋は通りません。バス通りもこちらで、消えかかっていますが、中央線もあります。こう考えてくれば、なぜ石のアーチ橋を文化財を指定解除までして取り壊したのか分かりません。しかも、高度経済成長のさなかならいざ知らず、平成12年を過ぎてからですから、不思議でなりません。建設会社の利益のためだったのかも知れませんね。ここで古い写真をもう一枚

 昭和30年代の写真です。この欄干が見える橋がバス通りの大加勢橋の昔のものです。右奥の2階建ての建物は西肥バス大加勢営業所といっていました。下はバスの車庫で2階はバスの車掌さん(全員若い女性)の宿舎でした。左側のしゃれた建物は映画館です。当時は最大の娯楽施設でしょう。「加勢会館」と読めます。私も高校1年の時、一度だけここに映画を見に行った事があります。加勢会館は同級生、静川祐司君のお父さんが経営していたので、只で見に行くことが出来ました。この写真を見ても雨上がりの水たまりの道を、続々と詰めかけているのが分かります。現在の写真を次に示します。

 西肥バスの車庫は全く昔のままです。映画館は跡形もありません。映画を見に行った時は、江迎から大加勢までのバス代は映画よりも高かったと思いますが、当時の高校生のバスの定期は1度しか乗られないように、日にち指定の回数券みたいのを切り取っていました。ですから学校が休みの時は無駄になっていたのを貰ってバスに乗って行ったのを思い出しました。それにしてもこの車庫はよく残っていてくれました。2階は全く使われている様子はありませんが。

 石橋の大加勢橋を取り壊した石は鹿町町の体育館の裏に番号を打って置かれていました。適当なところがあれば橋をかけ直そうとの考えもあったそうですが、平成19年になって行き先が決まりました。鹿町町の船の村にある遠海山・潮音院というお寺の側壁を飾る事になりました。すぐ近くに海と九十九島国立公園が見える風光明媚なところです。遠海山というよりは近海山といった方がふさわしいようなお寺です。
 安住の地を見つけたのでしょうか、橋というよりは、モニュメントといった方がよさそうです。台形の石が互い違いにはめ込まれています。

2012年7月2日月曜日

石橋(26)中野橋

中野橋(なかのばし) 佐世保市鹿町町船の村
鹿町町に現存する石橋はこの中野橋唯一つです。

明治33年に鹿町村の縦貫道路が完成しますが、やや遅れて大正3年になり、頑丈な石のアーチ橋として架けられました。橋長8.6m、橋幅3.7mの小ぶりのものですが、約1カ月の工期と188円の工事費を要したとの記録が残っています。


この橋が架かっている道路は、その後別ルートの県道が整備され、主要道路ではなくなりました。さらにすぐ横に新しいコンクリートの橋が架けられ、人も車も今はそちらを通っています。それでも1枚だけの田んぼに行くにはこの橋を渡らなければならないので、農作業用道路としての役目はしています。今まで知らなかったのですが、「まちづくり景観資産」などというものに長崎県が指定していますので、観光には一役買っているのでしょう。

2012年6月25日月曜日

石橋(25)鹿町橋

佐々川水系の石橋の紹介は終わりましたが、北松一帯では、今までに紹介した佐々、吉井、世知原の他にも鹿町と小佐々にアーチの石橋がありますので案内します。なぜか江迎には一基も残っているのはありません。


鹿町橋(しかまちばし) 佐世保市鹿町町鹿町(鹿町川)
現在の鹿町橋のすぐそばに記念碑が建てられています。4本の親柱も残されています。



碑文に詳しいきさつが書いてありますので全文紹介します。


       記念碑

昔から川向う西側集落住民は飛石でこの川を渡り雨が降ると飛石が渡られず不便と危険な生活をしていた。耐えかねた住家12戸当時、湯村作太郎氏を中心として話し合いを重ね、村当局の助成を受け、石橋を架けることになり、労力、資金を出し合せ現在の橋の位置に長さ18m、巾3.2mの立派な目鏡橋が完成、集落としては大変な事業であった。集落住民の涙ぐましい協力一致の結晶であり、集落あげて完成を喜んだ。時に昭和2年4月集落の生活は一変して便利な日常生活となった。昭和63年1月鹿町川河川工事のため橋の架け替えとなり近代的な現在の橋となった。橋の取り壊しの折りは集落集まってかゞり火を焚き橋との別れを惜しんだ先祖の功績を賛えるため、記念碑として石橋の両角4本の標柱を残し当時の目鏡橋の面影を偲び名残りを止むものなり

      昭和63年4月 集落民一同

この石橋「鹿町橋」の写真が鹿町の郷土誌にありますので転載します。

ここまで調べてきて気になるのが、橋の呼び方です。正式名称は鹿町川に架かる「鹿町橋」ですから問題はありませんが、通称名が碑文では「目鏡橋」(めがねばしと呼ぶのであれば眼鏡橋と書くのが正しい)と刻まれていて、鹿町町が発行した郷土誌では「太鼓橋」となっている事です。
石のアーチ橋を眼鏡橋と呼んでいるのは長崎や諫早にありますが、いずれも2連アーチですから川の水に写れば眼鏡のように見えるので、納得できます。
長崎の眼鏡橋
長崎の眼鏡橋は江戸時代初期の1634年に中国人によって建造され日本で最も古い石のアーチ橋です。そして橋の名前も「眼鏡橋」ですから石のアーチ橋を眼鏡橋と呼ぶようになったのかもしれません。
そして、鹿町橋は平戸のオランダ橋(正式名称は幸橋)をモデルにして作ったと郷土誌に記されています。尚、石材は少し上流の船石地区から切り出し、炭坑の台車を使って運んだともあります。
平戸のオランダ橋
郷土誌の写真はそっくりの形で、中央が盛り上がっています。この形が災いして取り壊しの運命になったのではないでしょうか。
昭和23年の夏、我々が小学校に入学した年です、台風による水害で鹿町川に架かる他の橋は全て流されてしまったそうです。唯一残ったのがこの太鼓橋だったと、この石橋があったので遠回りしても家に帰り着けたとの話を同年の人から聞きました。
それが、昭和63年には流されても壊れてもいないのに取り壊されて(かがり火で惜しんでは貰いましたが)架けかえられてしまいました。昭和63年といえば、日本が高度経済成長の終盤で、田舎にもモータリゼーションの波が押し寄せて来ていました。道幅は3.2mですから車がすれ違うことはできません。さらにこの盛り上がり橋は敬遠されたのでしょう。平らで広いコンクリートの橋にしようと衆議一決した様子が浮かんできます。
吉井や世知原の橋がいまだに多くのものが残されているのは平らな石橋が多かったからではないでしょうか。もっともダイナマイトで爆破して新しいコンクリートの橋に架け替えられたものもあったそうですが。
最後に現在の鹿町橋の写真を掲載します。


2012年6月18日月曜日

石橋(24)竜の氏橋・小岩橋

竜の氏橋(りゅうのじばし) 佐世保市世知原町上野原(竜の氏川)
架橋:大正15年 橋長:4m 橋幅:3.4m
高観寺橋近くの分岐路の案内標識を登っていくと下の写真の標識があるので、竜の氏橋はすぐ分かります。

最近になって道路の改修工事が行われ、新しいコンクリート橋がすぐ上流に架けられ、車も人も新しいところを通るようになりました。石橋は文化財としてそのままの姿で保存される事になりました。こんな山の中民家も見当たりませんが、佐世保方面へ通じる道路でもあるようです。



小岩橋(こいわばし)
これまで紹介してきた橋は全てアーチ式の石橋ですが、この橋は石を水平に渡した石桁橋と言うそうですが、そのなかでも、この橋は大きな一枚岩をでんと据えた橋で、この種のものを盤石(ばんじゃく)橋と言うそうです。この石の大きさは、長さ2.9m、巾1.35m、厚さ45cmというのですから、立派なものです。


昔からでしょうが、この橋は農作業専用の道でしょう。この大きな石をどうやって運んで来たのかこの川に架けたのかを知りたいものです。架橋は江戸末期から明治の初めごろと推測されています。橋の上にはデンボクといってイノシシ除けの電線が張られていました。今では、人間よりもイノシシがよく通る橋かもしれません。
この項最初の写真を見れば、小岩橋はすぐ分かりそうですが、普通の道を行ってもたどり着きません。あぜ道をかなり歩かなければなりません。私の場合も、3度目にやっとたどり着きました。佐世保市の教育委員会の人が来ていて二人でやっと探したものです。教育委員会が案内標識を建てるので写真を撮りに来ていたのです、あぜ道をどう案内するか楽しみです。



2012年6月11日月曜日

石橋(23)高観寺橋

高観寺橋(こうかんじばし)佐世保市世知原町上野原(佐々川)
架橋:昭和4年 橋長:15.5m 橋幅:4.2m
佐々川水系のアーチ式石橋を紹介してきましたが、佐々川本流の最上流にある石橋がこの橋です。写真の石積みは立派に見えますが、コンクリートパネルみたいなものを張り付けています。現在この橋は車はもちろん、人間も通らせません。痛み方がひどくてそうしているそうですが、コンクリートパネルはあんまりほめたものではありません。
バス停も近くに「高観寺橋」というのがあります。バス道路は新しく作られた「高観寺橋」を通っています。

2012年6月4日月曜日

石橋(22)古山橋

古山橋(ふるやまばし)佐世保市世知原町上野原(佐々川支流上野原川)
架橋:大正13年 橋長:9.7m 橋幅:3.6m
現在の本通りからやや離れた脇道に架けられています。写真ではよく分からないかもしれませんが、一見して赤さび色の橋で、鉄分を多く含む山水が流れていることを印象付けます。

この橋が大正時代にこの大きさの規模で架けられたということは、炭坑があったからでしょう。今では、この辺りは純粋な農村地帯です。

2012年5月28日月曜日

石橋(21)尾崎橋

21.尾崎橋(おざきばし)佐世保市世知原町槍巻(佐々川)
架橋:明治30年 橋長:6.7m 橋幅:3.6m

明治30年に架けられたということは、そのころ世知原から佐世保方面に通じる県道が整備されたのではないでしょうか。現在のバス道路は別の道筋になっていますが、この橋は今も立派に橋として機能しています。
橋の説明板もかなり以前に建てられたものです。英文の説明があります。合併後、佐世保市によって追加のテープが張られています。
橋の袂から見物人のための小道が作られていますが、階段や手すりは地元の人たちによる手作りが感じられます。他の所では、鉄とコンクリートの階段と手摺ばかりですが、ここのは、竹をロープで縛って丁寧に作られています。階段も土に流れ止めには竹や石を使っています。
その後、訪れたら新しい青竹に取り替えてありました。地元の人がこの橋を非常に大切にされているのが感じられました。


2012年5月21日月曜日

石橋(20)桐の木橋

桐の木橋(きりのきばし) 佐世保市世知原町北川内(佐々川支流北川内川の支流小田川)
架橋:大正15年 橋長:5.7m 橋幅:3.5m


この辺りの石橋としては、もっとも辺りの環境に溶け込み美しい橋と感じます。しかも、道路も舗装されずに、バラスが敷かれた農道です。今では回りの他の道はすべてアスファルトか、コンクリートで固められているので、ここだけが、かたくなに舗装することを拒み、異様な感じを受けそうです。
橋の手前の自然石には表に橋の名前、裏には建設年月、と分かりますが、左側には文字らしいのはあるのですが、今となっては判読できません。お爺さんが、寄贈者として名を刻まれていたのを見た記憶がある、との話を聞いたことがあるのは、おそらくこの橋のことでしょう。
この橋の周り一帯は公園として整備され、英語版の説明がされている看板もあります。付近の最近作られた外国語の看板や、案内板は中国語と韓国人用のハングル文字がほとんどですから、かなり昔に作られたのではないでしょうか。新しいテープが張られたのは、佐世保市に合併した後に修正されたものです。
橋の名前として「きりのき橋」と平仮名表記されているのが気になります。自然石の標柱の正面には「☆木橋」と読めます。☆のところは石が風化して読めませんが、親柱4本には「桐木橋」と表記があり、反対側には平仮名書きと建設年月が読み取れます。建設された当時は、漢字で桐木橋と言われていたはずです。やはり先人の表記に従うべきと思います。
川のそばまで近寄れて、橋の裏側の石組も良く見ることが出来ます。 
観光資源としてはこの石橋は大切な役目を持っていますがお百姓さんと話をしていたら、大変に気を使っておられることが分かりました。
そして、ここらの道幅は以前は1m足らずの狭い道だったというのですから、この橋の幅は3.5mというのは広すぎて不思議に感じていたそうですがなぜそんなに広かったのかは分からないそうです。
一帯が自然に溶け込んだ空間と言う感じがします。すぐ上手には、中倉万次郎翁の家があります。(翁は明治から昭和の初めにかけて、長崎県北では銀行や鉄道を建設し、衆議院の副議長までなった人ですから、明治以降では、もっとも傑出した地元の人だと思います)

2012年5月14日月曜日

石橋(19)いずみ橋

いずみ橋 佐世保市世知原町栗迎(佐々川)
 架橋:昭和4年 橋長:15.5m 橋幅:7.9m写真のように橋の上には、雑草や葛が生い茂っています。車はもちろん、人も通行止めになっていて、痛みがひどいようです。すぐ下流にコンクリートの「泉橋」が架けられてそこを車も人も通っています。それにしても、みすぼらしい姿をしています。文化財として指定されているのですから、せめて雑草くらいはきれいに刈り取り手入れしてもらわないとこの橋は自然と崩れるのではないでしょうか。

2012年5月7日月曜日

石橋(18)山口橋

18.山口橋(やまぐちばし)佐世保市世知原町栗迎(佐々川支流北川内川)
架橋:大正14年 橋長:5.2m 橋幅:1.8m 山口神社のすぐそばに架かっているので、山口橋と言うのでしょう。現在では人通りの少ないところです。標識がなければ道路(小径と言った方が適当か)を歩いても気付かずに通り過ぎるでしょう。狭いところに岩盤を利用して石橋が架けられているので、上から写真を撮るのは困難でしたが、川に降りればよく撮れるかもしれません。

2012年4月30日月曜日

石橋(17)倉渕橋

17.倉渕橋 (くらふちばし)佐世保市世知原町栗迎(佐々川)
架橋:大正8年 橋長:20.6m 橋幅:4.6m
世知原から佐世保の皆瀬への道路、佐々川本流に架けられています。路線バスも走っていて石橋の頑丈さを物語っています。橋の下は公園化されています。川岸までスロープが作られ、身体障害者が車椅子で釣りを楽しめるように整備されています。