2010年4月26日月曜日

木場の炭坑について(1)


 木場炭坑のことが議事録に出てきたので、炭坑跡の写真を載せてみようと木場に出かけて見ました。そこで詳しい話と場所を教えてもらうことができました。
 以前、佐々の古川岳遊歩道作りの石工さんで岩肌に、漢詩を彫り込んでおられた徳永椙衛(とくなが すぎえ)さん(大正11年1月生まれ)を訪ねました。下の写真は徳永さんの自宅すぐ横にある「排気坑道」の出口部分が畑の中に少し残っているところです。以下は徳永さんの話を中心に書き記します。
 木場地区は口石から3キロほど山手へ上ったところの隣り合う集落です。ここには炭坑が3社ありました。徳永さんの家のすぐ近くにあったのが「里山炭鉱」でこの排気坑道も里山炭鉱のものです。これは18°の角度でおよそ100メートルほど下り、2キロの水平坑道につながっていたそうです。ここより左上に「大岳炭坑」があり、右下に「木場炭坑」がありました。木場炭坑と坑口に石に彫られていたのが、今も残っているはずだとのことで、探しに行きました。この辺りという所に行ってもそれらしいものは見つからず、新しい道路ができて削られたり、埋め立てらりしたところばかり目立ちます。通りがかった近くの人はあるとは言うけど、最近見たことはないらしく、おおよその場所を教えてもらい再度探してみました。
 荒れた田んぼがあり、その奥の崖というか藪になった所に近づいてよく見たら、石の壁らしいものが見えました。壁に張り付いた葛を取り払ったら、文字が見えてきました。はっきり読み取れます。感動の発見でした。執念で見つけ出した感じでした。下の写真は炭坑坑口に立つ徳永さん。手に持っているのは杖ではありません。藪払い用の鎌です。

 最初に見つけた文字は、アーチに組まれた石…トンネルの場合迫石(せりいし)という…の頂点にくさびに打ち込まれた石…要(かなめ)石(キーストン)という…に「一坑」と縦書きでありました(下写真)。坑口はコンクリートブロックで閉ざされて中には入れません。この炭坑には他にもいくつか坑口があったそうですから最初のものでしょう。
 さらにその上の部分…トンネルでは「扁額(へんがく)」という…に、白くきれいな砂岩に飾り縁が付いて、右から左へ「木場山炭礦」と書いてありました(下写真)。普通「木場炭坑」と呼んでいましたが、正式には「木場山炭礦」だったのですね。そこはかなり高いところで、梯子もなく葛をきれいに取り除いて写真を撮ることができず、日も陰ってきて鮮明に映せませんでした。そのうち脚立を持って行きたいと思いました。田んぼに水が入る前に。
 
その後、徳永さんのお宅で奥さんも交えて炭坑の話を聞かせてもらいました。おもしろかったのは

其の1 全盛の昭和20年代この里山炭鉱の経営者「山本音三」さんは長者番付全国1になったということですから、すごいことです。もっとも地元の人ではなく、大阪からやってきた人だそうです。実際にこの炭坑で働いたことがある人に聞いてみたら、経費がかからずに掘りだせたからだろうと言っていました。そんなら賃金は安かったのでしょうと言ったら、他に比べたら高かったんだそうです。

其の2 この項のはじめに書いた排気坑道は人が歩いて通れる大きさだったそうです。夏は涼しく、冬は暖かい快適さで、子供がよく入り込んで遊んで(サボって)いたそうです。中学生の中には近道ということでここを通って学校へ行く子もいたそうです。
 

其の3 この排気坑道では落盤事故があったそうです。上部排気口に近いところだったそうで、3人が生き埋めになったけど、石とか坑木の間に人がいて、酸欠になることもなく、「助けてくれ」という声が外まで聞こえていたそうです。徳永さんの奥さんはその声をはっきり聞いたそうです。そして9時間後に全員無事に救出されたそうです。その中の一人に春本勘一さんがいたそうです。すでに亡くなられましたが、生前には一緒にゲートボールをしたことがありました。墓地はうちの墓の隣です。父や母の隣に眠っておられます。



2010年4月19日月曜日

議事録5(大正12年)炭坑のトロッコ線路工事

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大正拾弐年一月七日 初集会 於テ

一、協議員 改選結果
      上講 志方重太郎氏(重広さんの父)
      下講 横田奥次郎氏(昭さんの祖父) 
  右通リ選挙ス
二、入営兵ノ青年見送リハ中里駅迄ノ事トス
三、芝居興行者ハ一日拾円宛区内金ニ出ス事ヲ決議ス

一、大正拾二年一月七日 集会ノ時キ山永関蔵(鉄舟さんの父)分家区仲間入之相談アリ

一、大正十二年四月五日 触集会ニテ決議スル事左ノ如シ
一、木場炭坑軌道作リ元藤永忠三氏ノ下(現在の金子圭一さん宅のあたり)ヲ敷地ハ村ヨリ買上、人夫ヲ木場区十名、口石区十名ニテ作ル事ニ協定ス
二、仝炭坑ノ軌道ヲ利用シ敷地ハ炭坑ヨリ買上、人夫ノミヲ小浦区ヨリ全部一日芳ノ浦道 口石区ヨリ藤永忠三氏ノ下道路ニ出シ残リ全部一日ノ出務ヲスル事ニ決定ス(意味がよくわからない)

一、大正十二年四月十日 触集会ノ件
小野政太郎 新ニ区ノ仲間入之相談アリ承諾ヲナス
触入金前年協定之通リ
金五拾円ヲ当時の会計横田安之助氏ニ渡ス
二、当区ニ保安組合ヲ置ク事ニ協定シ
 会長一、副会長一、協議員六名改選ス
 会長 当選者 藤永半兵衛(知幸さんの父)
 副会長 〃   荒木利三郎
 協議員 〃   横田十三郎
   〃      藤永 藤七
   〃      池田 勇平
   〃      志方 重太郎
   〃      友田樫太郎
   〃      横田安之助
  会員ハ区全部
三、木場炭坑ヨリ酒壱斗
  保安組合初会ニ出シタルモノナリ
四、消防小屋ノ戸口ヲ壱間戸口ニナス事ニ決定ス

  十二年七月一日
     村祈祷集会
一、田植賃金ノ件
一、本年ハ昨年通リ男壱円十銭 女八十五銭
一、草場 合志木 玄米壱斗八升ニ落札
          藤永善七(繁さんの義父)
一、大正十二年七月一日集会ノ時キ
  川内野八太郎 寄留ノ相談ヲナス
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★ 入営兵の見送りを中里駅までと決められたのは何のためでしょうか。その当時汽車(軽便鉄道)は相浦から上佐世保(現在の俵町)まで大正10年に開通していました。したがって口石からは一番近い駅が中里駅(現在の上本山公民館のところ)でした。



★ 口石には芝居小屋が正福寺の下付近にあったそうです。それにしても興行主から1日10円も部落に納めさせていたのはすごいですね。木戸銭はせいぜい5銭とか10銭程度でしょうから、お客さんはよく入っていたのでしょうね。

★ 木場炭坑の軌道(トロッコ線路のことでしょう)作りのことが書かれていますが、この炭坑については遺跡が残っていますので、次回に写真を添えて詳しく書くことにします。

★ 保安組合という組織が口石部落に作られたことが気になります。役員はそうそうたる村役どん達が顔をそろえています。大正14年にあの悪名高い「治安維持法」が制定されて、戦争へと突き進むことになっていったことと何か関係ありそうな気がします。今後調べてみます。それにしても保安組合の最初の寄りに木場炭坑から酒を1斗もらって、役員8人で飲んだのでしょうか。それとも当時80~90戸の集落ですから、男全員で飲んだのでしょうか。

★ 最後に「寄留」という文字が見えます。私が35年ほど前口石に家を建てて移り住んだ時、「キリュウジン」という言葉を聞いた時には、奇異に感じました。家内は自分たち新入りのことを言われていると思っていましたが、借家住まいの人を指していました。当時から家を構えて移り住む人には、口石は馴染みやすいところだと感じました。          

2010年4月12日月曜日

議事録4(大正11年)公民館を小学校の校舎として

 上写真の右側は筆書きの大正10年のものですが、左ページの大正11年の分はペン書きです。和紙に書いてあるのでペン先の走り具合が悪かったのでしょう、判読しにくい文字が筆書きよりも多く見受けられました。


 もっとも、当時はペン書きは珍しくて貴重なものかもしれません。当時のインクはブルーブラックのはずです、真黒に見えるのは時間がたって変色したものでしょう。原文を書き写します。



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 大正拾壱年度

   一月七日初集会ニ於テ協議決定事項

一、公会堂(部落の公民館のこと)校舎貸賃、年三拾六円ノ処ヲ本年ヨリ四拾八円ニ賃上ノ事

二、野坂地料代モ初集会ニ報告ヲナス事

三、触役給料ハ一人前壱円宛ノ事

四、区長改選ニ付、 新区長 荒木利三郎(泉さんの義父)

             協議員 藤永東七(勝之さんの父) 

                  池田藤三郎(新さんの父)

                  友田樫太郎(一二さんの父)     

                  森田祖助(博介さんの義父)

   区長代理ハ以前通リ  横田十三郎(隆亮さんの祖父)

五、松野三代作病気ノタメ区ノ出務ヲ免除ノ事

六、須崎里道ヲ四ツ井樋海岸マデ開通ノ協議ニ依リ四ツ井樋方面部落ヘ交渉委員定ム

    藤永東七 真藤猶七 池田藤三郎 志方兼吉(伝さんの祖父) 池田勇平(池田本家その後転出) 森田源八 荒木利三郎

    大正十一年三月五日  於テ野坂

一、三月五日部落有林野統一地界境付テノ際野坂ニ於 区中協議左ノ通リ

一、処分地ニ付テノ方法

  処分地口石区役員四名ノ名義ニ処分地全部ナスベキ事

二、野焼ハ区中ヲ二分シ隔年ニ上下交互

   但各人桶一コ(?)宛持来ノ事

   持来無者ハ二十銭ノ不足金集ル事

   本日出不足ハ壱円五十銭宛定ム

右定ム        初焼ハ上部ヨリ初ム


     三月二十日 協議員会於テ

郡ノ山林会ニ、毎年壱円宛、藤永東七ノ名義ニテ区ヨリ加入シ置ク事

     大正拾壱年七月九日 村祈祷総会ノ件

一、田植賃金 男壱円十銭 女八十五銭ニ定マル

一、草場ゴーシギ玄米壱斗六升

        落札人 藤永久米治

一、古品水突 売立代金拾円也

        落札者 真藤峯太郎

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 この年は1月7日初集会、3月5日野坂(山の中)の現地での会合、3月20日協議員会、7月9日村祈祷集会と4回に渡る各種の会合の内容が記録されています。筆跡は同じものです。特に気付いたことを述べてみます。

① 部落の公民館(当時は公会堂と呼んでいた)を小学校の校舎として貸していたことは、ずいぶん長く続いていたようで、部落の収入になっていたようです。

② 触れ役(今の班長)の給料が年間1円とあります。田植えの労賃1日分男よりは安く、女よりは高くなっています。

③ 区長以下、区長代理と協議員上(カミ)地区2名、下(シモ)地区2名、合わせてこの6名が村役というか「肝入りどん達」ということでしょう。集落を取り仕切っていたのでしょうね。全部の役員名が初めてはっきりしました。そして、6人の子孫は皆さん町内で活躍されています。

④ 現在の町道赤崎線を作るための隣部落との交渉委員がこの時決まり、準備に入ったようです。今ではよく使われている道(車の離合には狭い)ですが、全通したのはかなり後になってからのようです。

⑤ 野焼きの出不足金はかなりの高額ですから、全員参加で行われたのでしょうね。

⑥ 古品水突売り立て代金10円:落札者 真藤何某とあるけど、「水突」とは消防で使っていた手押しポンプのことではないでしょうか。真藤さんの子孫の方は石切りをして砥石屋をされていましたので何か関係ありそうです。それにしても中古のポンプが10円もしたとは高いような気がします。

 

2010年4月5日月曜日

議事録3(大正10年)町内会費米3升を5升に

 
     大正拾年度

   一月七日初集会

一、本年度ヨリ触用米参升ヲ五升宛ニスル事
一、区長、其他、区役員ノ給料ハ昨年之通リトス
一、例年之通リ金銭出納ノ報告ヲナセリ
一、区協議人森田源八(森田朝一さんの祖父)、任期満了ナルモ都合ニ因リ本年ハ居据リヲ諮リ拾壱年度ニ於テハ上ノ協議人森田源八、下ノ協議人友田樫太郎(友田一二さんの父)ノ両氏ヲ改選期トシ、森田祖助(森田博介さんの義父)、荒木利三郎(荒木泉さんの義父)ノ任期ヲ本年度ヨリ改メテ弐ケ年ト極ム
一、山永熊太郎弟正雄(山永美義さんの父)、分家区仲間入之相談アリ、当日ニハ佐世保海軍工廠出勤中ニ付キ区出夫ノ当分免除ノ相談アリ、共ニ承諾ス

    大正拾年七月三日
  村祈祷総会ノ件
一、田植賃金 男壱円拾銭 女八拾五銭 ト定ム
一、半坂杉木入札ハ来月、本月県道修繕ノ件ナス
一、野坂草本谷、ヤナギ谷 玄米五升
        落札者 藤永久米治(京一さんの祖父)
一、越木岩草 玄米壱斗五升
        落札者 藤永三代四郎(隆さんの祖父)

 以上がこの年の記録です。

★ 最初の「触用米」とは現在の町内会会費のことか「触れ役」今なら班長さんへの手当なのはわかりません。調べてみたらこの頃は物価の変動が激しく米も値上がりしています。おおよその値段ですが、米3升は1円強、5升は2円弱というところです。田植えの1日の日当が1.1円(男)ですから安いのか、高いのかどうでしょう。

★ 前年8月に「戊申の詔書」による引き締め策が申しつけられ、何か変化したのでしょうか、役員の任期を延ばしたのはそのためでしょうか。それにしても区長の名前が出てこないのが不思議です。

★ 二男が分家するとき、村役さんたちの了承を受けて、村役場の台帳に「戸主」と認められたいきさつが分かります。この人は大変な力持ちで、2月22日付けの本ブログで紹介しています。

★ 後半の「村祈祷」とは各集落ごとに隣の集落との境(道路)に杭を打って目印にしていたそうです。自分の集落内では、通りがかりのよそ者であっても死者が出たらきちんと弔う風習があったそうです。無縁仏の塔とか、お地蔵さんなど最近あちこちでそのようなものを見かけます。口石町内では今のところ見当たりませんが、きちんと弔ってやろうという気持ちがあったようです。杭打ちは木の杭を舗装していない道路の肩に打ち草を縄のように編んで輪にしていたそうです。これはそれほど長持ちするものではないので、毎年定期的に作業が行われていました。作業の後、集落の無病息災、五穀豊穣をお祈りしていたそうです。

★ その後に、総会をして田植えの労賃を決めたり、部落の野原の草(牛の飼料として)は入札で落札者を決めていたのですね。

以前私が住んでいた所ではシロウオ漁の権利を入札で1人だけ決め、部落の収入としていましたが、現在も続いているようです。