2011年5月30日月曜日

口石の平戸街道(1)正福寺

 江戸時代、参勤交代や長崎勤番の時、平戸松浦藩の殿様が通っていた道が平戸街道です。現在の国道に相当するのではないでしょうか。田平から彼杵まで約62キロメートルの道のりですが、その間の3キロ弱、口石町内を通っています。
  国道204号線、口石と新町の境目、ヨコタ自動車整備工場の駐車場横に、平戸街道(正福寺入り口)の標識が立っています。ここからが口石町内会になります。  自動車整備工場の裏の道を進むと、ほどなく正福寺(しょうふくじ)、真宗、本願寺派のお寺です。創建は天正11年(1583)で元禄3年(1690)に口石に引っ越してきたというのですからかなり古いお寺です。元禄以後の人は見ていたのですね。このお寺のロータリー前で直角に曲がり、国道へ は100メートルほどです。

 国道端に昭和3年に建てられた山門があります。ここでも直角に曲がって口石公民館の方へ平戸街道は続いていきます。

2011年5月23日月曜日

口石金比羅神社の祠

 今年は4月10日に口石金比羅神社の神事を金比羅山頂の祠で行いました。例年4月と9月の10日に近い日曜日に行われます。朝から町内会総出で清掃作業を行い下の写真のような幟を立てました。  いつもなら、午後からは公民館に下って演芸会を行うのですが、今年は大震災の「自粛」の影響で演芸会は中止となり神事のみとなりました。
 この祠の建物はかなり新しく、昭和51年9月に新築されました。それ以前は石の祠が雨ざらしになっていました。 建立奉納をされたのは、堀野吉彦さんで、以前は口石に居られました。ご本人の話では「口石町内の皆さんに助けられて奉納ができました」とおっしゃられました。 建設に当たっては、資材を下から運び上げるのが大変だったので、町内に呼び掛けられて多くの人が加勢にきましたが、特に消防団の若者が頑張っていたのを記憶しています。私も砂袋を担いで上ったのを覚えています。加勢人が多く、当時は若かったのでそれほどきつかったという印象はありません。 神事の準備をされている宮総代の山下裕康さんと神主の友田千利さんです。石の祠は3つあり、中央が金比羅さんで右に黒髪さん左に宮地嶽さんが祭られています。上り口から上がれば板張りです。  今年は参拝者が多くて板張りは満員になりました。






















2011年5月16日月曜日

高等小学校と神近市子

 第十三 高等小学校から口石高等小学校の記録を調べていたら、神近市子の名前を卒業名簿の中から見つけ出しました。


 神近市子と言えば佐々町出身では全国的に有名になった人はこの人だけでしょう。若い人は知らないと思いますので代議士に当選した時の新聞写真を示します。

 当時の新聞では彼女のことを「女史」と書き習わしていましたのでそれに倣うことにします。女史は明治21年6月6日佐々町の小浦部落で貧乏医者の娘として生まれたと自伝に書いています。佐々で高等小学校を卒業後、長崎の活水女学校へさらに東京は津田塾へとすすみ、新聞記者など活躍の場を広めましたが、三角関係のもつれでは刃傷沙汰まで起こし、刑務所暮らしもしていますが、社会党左派から衆議院選挙に出て当選し、「売春防止法」の成立に名をとどめました。 明治31年3月に尋常小学校を卒業した時の名簿です。本名は「神近イチ」で「神近市子」は文筆活動の時のペンネームのようです。この時は男女共学ですね。3歳の時父親が死んだので兄が保護者となっています。
 次に明治36年3月に高等小学校の卒業のときは、男女別になっています。卒業の時の成績も記入されていて、女史の学科成績は「甲」ですが操行は「乙」となっています。

 女史の子供時代の話は、女の子ではありながら武勇伝的なものが語り継がれています。その事は佐々町郷土史にも書き記るされています。当時流行していた「汽笛一声新橋を」で始まる鉄道唱歌の15番に「ここぞ御殿場 夏ならば 我も登山をこころみん・・・」と富士登山のくだりがあるのを男の子たちが御殿場を「お転婆」と替え歌を歌い冷やかしていたそうです。中には女史に捕まってこっぴどくやられた者もいたそうです。またこの郷土史の編集委員長の宮原九一郎さんから聞いた話では、女史は小学校時代、佐々橋の角材で出来た欄干の上を男子でも出来ないのに平気で歩いていたと先輩から聞いていたそうです。東京で一旗あげた人ですから田舎でこのくらいのことはやりそうですね。

 上写真の角の平屋の家の場所が女史が生まれて小学生時代を過ごしたところですが、昔の家の名残は全くありません。
 現在の佐々橋歩道橋です。コブハクチョウが泳いでいるところに昔の橋の基礎部分のコンクリート跡があります。神近女史が歩いた欄干の橋かどうかは定かではありませんが、この付近だった事は間違いありません。私が早春の「シロウオ漁」をする所はこの下流150メートルの右岸です。







2011年5月9日月曜日

口石高等小学校

 長崎県立第十三高等小学校は明治19年に創立して、わずか6年ばかりで廃校になりました。その跡地(現在の口石小学校)に佐々村を中心に8か村による組合立の「口石高等小学校」が作られました。

 当時、鹿町村から入学した人の話を聞きました。下の写真の中央に書かれている坂本源一郎さんです。父親は当時、初代の鹿町村長をされていた坂本清太郎さんです。この人は筆まめな人で原稿用紙に非常に詳しく書き記されています。その後、知り合いの牧師さんがガリ版刷りの小冊子にまとめられたのを読む事が出来ました。
 明治29年4月1日、「口石高等小学校」に入学して、卒業後は平戸の猶興館中学に進まれています。その後、満州に渡り波乱万丈の人生を送られたそうです。
 口石高等小学校では寄宿舎生活を送られたそうですが、鹿町から登校する時は、お供が付いて来ていたそうです。おそらく江迎の高岩から江里峠を越えて歩いていたのではないでしょうか。最近、平戸街道ウォーキングで通っている道です。およそ14キロですから3時間はかかっていたのではないでしょうか。口石高等小学校は明治31年2月に廃校になって、佐々尋常高等小学校に引き継がれているので、この方の明治33年の卒業は「佐々小学校の高等科」ということになります。その当時には、鹿町や江迎にはまだ高等科は設置されていなかったのではないでしょうか。

  このページには11人の氏名が書かれていますが、2人だけが「士族」で他の人は「平民」となっています。終戦になるまでは身分制度が残っています。

2011年5月2日月曜日

第十三高等小学校

 口石小学校の校門というよりは国道から入る信号機のすぐ横に「第十三高等小学校跡」と書かれた六角形の柱状節理の自然石の記念碑があります。  この地に明治19年11月10日に創立した長崎県立の小学校です。当時各町村ごとに4年制の尋常小学校がありましたが、明治政府は教育に力を入れて、その上に4年制の高等小学校を置きました。長崎県では全体を20の校区に分けて、この付近では相浦谷、佐々谷、江迎谷まで当時の村の名前でいえば、柚木、大野、皆瀬、中里、山口(相浦のこと)、佐々、小佐々、吉井、世知原、江迎、鹿町の範囲に1校だけ作りました。当時の最高学府で、スパルタ式の非常に厳しい教育方針だったと言い伝えられています。また広い範囲から生徒が来ていたので寄宿舎もあったそうです。旧制の中学が出来る前のことです。この数年後には平戸の猶興館は藩の私塾から猶興館中学となり、佐世保にも佐世保中学が作られることになります。  13番目の名前を持つナンバースクールは足かけ6年の短い期間で、明治25年6月には廃校となりました。その後は北松浦郡8か村立の口石高等小学校としてしばらくは残りましたが、各村の尋常小学校に高等科を併設すようになり、明治31年2月にはなくなってしまいました。このめまぐるしい変遷は時代の嵐のすごさを感じます。

 現在の口石小学校に引き継がれずに、当時の学籍簿や卒業生名簿などは佐々尋常高等小学校に引き継がれ、現在の佐々小学校に残っています。和紙に毛筆で書かれていますから立派に保存状態は極めて良好です。罫線や各項目は活版印刷されていて、細かい毛筆の達筆さにはほとほと感心しました。この明治の中頃の資料は「久保」の意味の朱印が押されていましたが、永久に残るのではないでしょうか。


 校長先生の話では、太平洋戦争末期ごろのものには欠落したものがあるそうです。校長室の金庫の中でもその頃の品質が悪いことが一目見て分かります。

 内容も見せてもらい写真に撮ってきました。めくっていると見覚えのある氏名がずいぶんとありました。「士族」や「平民」がまず書かれ、生年月日は必ず記入されていますから年齢も分かります。まちまちの年齢と、入学した人の約半数しか卒業していない実情も分かりました。退学の理由は多忙、貧困などはっきり書いてありますし、不明というのもあり、転校も少しはあります。授業料も払わなければならなかったのですから、裕福な家庭しか高等小学校には行けなかったようです。