2010年2月15日月曜日

庭開き記念碑

 口石金比羅神社一帯にある記念碑で最も古いものが これです。この項は大浦正雄氏(故人、大浦隆二さんの父)および寺田浦一氏(故人、寺田潜氏義父)の話をもとにまとめました。

(1)文面


     庭開


  桜樹之記念


  コンクリート段


  大正十年十月十日建碑

 と達筆な草書体(行書体かも)で書いてあります。     

  当時口石小学校の校長先生だった人が揮毫されたと、大浦さんは話されていました。口石小学校の校長室に行くと歴代の校長先生の写真が掲示されています。第7代、大正10ー11年の校長先生は「大浦 浩校長」とありました(右写真)ので間違いないでしょう。


 記念碑に彫りこんだ日付は、大正十年十月十日と十が3個並んだおめでたい日を選び、除幕式をしたのではないでしょうか。金比羅さんのお祭りは4月と9月の10日(最近では10日に近い日曜日)となっているのに、あえて10月に記念碑の日付を入れたのは、語呂合わせのためと思われます。


(2)庭開

 当時の山上は石の小さい祠が祀られていたことと思われます。春4月には地元の人たちが弁当持参で上って来て、素人演芸会をやっていたのでしょう。時には旅回りの役者一行が来た時もあったそうです。出店も出ていたというのですから、当時の子供たち(もちろん大人も)は大いに楽しみにしていたことと思われます。

 秋には、神主さんたちによる「平戸神楽」の奉納が現在も行われているのですから、当時はもっと賑っていたことでしょう。日本刀の真剣を1本は口にくわえ両手に1本づつ持ってでんぐり返りをする「三本剣の舞」を見たときは驚きました。

 演芸会や、神楽の奉納をするための広場の整備を行ったのがこの「庭開」ということでしょう。


(3)桜樹之記念

 金比羅さん近辺には、何度も記念植樹がされてきました。大正10年に植えたのが「ソメイヨシノ」であれば、とっくに寿命は尽きていると思われます。現在下の段の広場、階段の横、そして頂上広場の周囲と桜の木はありますが、いずれも樹木に勢いがなく花も貧弱にしか咲きません。特に頂上広場のものは岩盤のために樹木が太ることもできずにいます。上写真は山頂広場と桜の小木ですが、いつ植えたのかはわかりませんが、数十年は経っています。


(4)コンクリート段 

 これについては次回にします。


 

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