2010年2月1日月曜日

三人はどうやって四国まで行ったのでしょうか?

 明治4年に九州の西の端から讃岐の金比羅さんまで、かの3人連れはどうやって行ったのでしょうか。

 横田家に言い伝えられているのでは、3カ月かけて船で行ったそうです。それも小浦から伝馬舟を漕いで、3丁櫓だったのでたいそう早かったそうです。言い伝えということですから、否定することはできません。しかし、確証もないので、にわかには信じられません。そこで、いろいろ考えてみました。

 当時の交通機関はどうだったでしょうか、新橋ー横浜間を汽車が走ったのが明治5年、T型フォードがアメリカで発売されたのが1908年(明治41年)、ライト兄弟の弟が生まれたのが1871年(明治4年)ですから、汽車も自動車も飛行機も考えられません。歩くか船に乗って行くかのどちらかということになります。

(1)歩いた場合
 平戸街道を研究している人に聞いてみました。「佐々口石から半坂峠を越えて平戸街道を進み、彼杵の宿から長崎街道を行けば、小倉に着くのでそこからは、瀬戸内海を渡る船はいくらもいるので小倉からは船で行ったのでしょう」できそうですね。



(2)伝馬舟の場合
 片道およそ500キロ、往復1000キロ小舟の旅、12月前後の冬場の玄界灘を漕いで行ける日が半分、1日10時間(明るい間)とすれば時速2キロ強のペースを維持できれば可能ということになります。楠泊の漁師に聞いたら「舟に火床を作って船上生活をすれば安上がりに行ける」と強調していました。プロの漁師ならできるかもしれないけど、三人の仕事はお百姓と大工さんと神主さん、はたしてできたでしょうか。下の写真は小佐々郷土資料館にある「イヌコロ舟」といって漁師が寝泊まりしながら漁をした舟の小型のもので、これも3丁櫓です。


(3)貨客船の場合

 森の石松が船に乗って金比羅さんに代参したのがこれよりも11年前のことですから、ほぼ同じ時代ということになります。

 江戸時代平戸藩内からも船で伊勢参りや金比羅参りに出かけていた記録がいくらもあると松浦資料博物館の学芸員も説明してくれました。

 平戸郷土誌(大正6年の手書きの資料)によると、平戸ー田平ー江迎ー歌が浦ー楠泊ー佐々ー相浦ー佐世保間に定期船が通っています。その次の文面を紹介すると

「右定期船ノ外不定期船アリ。其ノ寄港モ一定セズ積荷ノ都合ニヨリテ寄港シ或ハ寄港セズ。此ノ航海ニ従事スルハ大阪商船、深川、尼崎ノ三会社ニシテ凡ソ隔日ニ上下航ス。而シテ是等ハ主トシテ貨物ヲ取扱フモノナレドモ旅客モ亦取扱ハザルニ非ズ」

とあり、寄港地は伊万里・呼子・唐津・博多・下関・今治・多度津・大阪などと記されていて、大阪までの三等運賃はおよそ4円となっています。

 加藤民吉で有名になった、佐々皿山で焼き物が焼かれていた江戸時代後半には、天草から陶石を積んだ船が皿山近くまで佐々川を上っていました。

 口石の正福寺では慶応3年(明治元年の前の年)に京都の本山に住職の法天上人さんが行かれたという記録が残っています。その時はこのような船で行かれたそうです。

 九州から四国へ渡るのですからいずれにしても、船に乗らないと行けません。読者の皆さんはどうやって行ったと思われますか。

       正福寺 11世  法天上人の書付
 









        

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