
ガードレールの奥は池でしたが、背丈の高い雑草に覆われています。30数年前に小学生の子供を連れてここでフナ釣りをした時はよく釣れました。堤防もあり堤という感じがしていましたが、現在は気付かない人が多いみたいです。
この堤のすぐ近くに「古堂の観音」さまの祠があります。古い観音堂があったから「古堂の堤」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

5月にはキショウブの花が群落を作っています。誰が植えたというものでもないのに、外来種の勢いのよさを見せつけられます。堤防の上にホテルの看板が建てられています。
公会堂の堤(コウカイドウノツツミ)
右上の白い壁の建物が、現在の口石集会所です。もともと田んぼだった所に当時の人は公会堂と呼んで建てました。口石の中心に位置しており、戦後は公民館として活動の中心でした。昨年完成した建物は佐々町のものとなり名称も「口石集会所」となりました。このすぐ裏手にあるので、公会堂の堤としてなじんできました。
この池には、菱の実がなるオニヒシが自生しています。実は菱型で先端には鋭いトゲがあります。その実をゆでて食べたら栗の実と同じような味がしました。
正福寺の堤(ショウフクジノツツミ)
ここも水面いっぱい水草に覆われていますが、春先には睡蓮の花も見られます。正福寺の庫裏のすぐ横にあります。写真の高い屋根は正福寺本堂です。農業用水として使われている気配はしませんが、以前正福寺には田んぼがあったそうですからそこへ水を引いていたのでしょう。



この池には「平田第二溜池」があります。使わなくなって何年にもなるらしく深い草丈に阻まれてこれ以上は近づくことはできませんでした。
木場川からの取水口です。太田橋の約150メートルばかり下流に堰を作り、上の写真左側の水路に導き入れています。この水利権は堰を越える水がある時だけしか取水できない事になっているとのことです。
ホテルフェイスの前でトンネルの中に水は潜っていきます。町道木場線とホテルの取りつけ道路の下、長さ約70メートルのトンネルです。堀切にして土盛りで埋めることも考えられますが、この入り口の所では高さ1メートルばかりは石で塞いであり、人間1人が作業するためのものと思われます。
トンネルの出口です。水が貯水池にたまっています。北松浦郡一帯では明治の頃から石炭の採掘がされていて、炭坑の坑道を掘る職人はいたのですから、この水路工事にトンネルを掘るのはたやすいことだったのかもしれません。
トンネル出口の上から見たところです。こちらから見ればかなりの高さがあり、とても堀切で水路を作ろうとは思われません。
ため池(耕地整理の堤)の堤防の上から見た写真です。右奥がトンネル出口の取水口です。ここから見れば、この池に水がたまるのはなぜだろうと思うぐらい雨水の流れ口が考えられないところです。子供の頃、耕地整理の堤でよく泳いでいたという人の話では、近くの平田の堤と比べてもここはかなり深かったとのことですから小さいながらも貯水量は十分あったようです。
堤からの水は土管を使って、田んぼへと配られるのですが、平田の墓地の所(写真の右)ではかなり低くなり、ここから高い田んぼへと上がっていきます。この土管はよく破れて補修に手間と金がかかったそうですが、一部に土管のままの所もあるそうですが、この辺りはビニールパイプを使いバルブの開閉で写真のように放水する事が出来るようになりました。数年前までは、木栓に布を巻いたものを打ち込んでいました。
このサイフォンの原理で、用水を送るのは、熊本県の通潤橋があまりにも有名で口石のものは見劣りはしますが、立派に役目を果たしています。
最初の田んぼの所(1番高いところの田んぼ)まで来た水は溜め桝から3方向へ田んぼの面積に応じて水の分配が行われている様子が分かります。砂岩に刻まれた水路の幅が、中央:左:右では1:2:4となっています。

右に小さい橋が架かっていますが、この農業用水路を渡って国道の方へ旧県道は通じていました。国道は田んぼからするとかなり高いところに作られましたが、旧県道は低いところで木場川を渡っていました。
上の写真は現在の妙見橋で、その上を横切るように高速道路の橋が架かりました。旧県道の妙見橋は現在のものより少し下流にありました。
国道を作る時、直線的なコースを取り、芳の浦の峠を越えるためこの辺りはかなりかさ上げが行われました。したがって、新しい妙見橋は橋桁が高いものになりました。そこに終戦後の一時期ホームレスが住み着き、ゼンモン橋と言うようになったそうです。今でも妙見橋と言わずにゼンモン橋と言う人もかなりいます。