2011年7月25日月曜日

口石の溜池(2)古堂の堤、公会堂の堤、正福寺の堤

 古堂の堤(フルドウノツツミ)



  ガードレールの奥は池でしたが、背丈の高い雑草に覆われています。30数年前に小学生の子供を連れてここでフナ釣りをした時はよく釣れました。堤防もあり堤という感じがしていましたが、現在は気付かない人が多いみたいです。



  この堤のすぐ近くに「古堂の観音」さまの祠があります。古い観音堂があったから「古堂の堤」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。





  5月にはキショウブの花が群落を作っています。誰が植えたというものでもないのに、外来種の勢いのよさを見せつけられます。堤防の上にホテルの看板が建てられています。



 公会堂の堤(コウカイドウノツツミ) 右上の白い壁の建物が、現在の口石集会所です。もともと田んぼだった所に当時の人は公会堂と呼んで建てました。口石の中心に位置しており、戦後は公民館として活動の中心でした。昨年完成した建物は佐々町のものとなり名称も「口石集会所」となりました。このすぐ裏手にあるので、公会堂の堤としてなじんできました。

 水面に榎の大木が枝を広げています。平田溜池同様夏場にはプールとしての役目ももっていました。集落の中心地で、横に大きく伸びた大木の枝は格好の飛び込み台として子どもたちはよく遊んでいました。
 この池には、菱の実がなるオニヒシが自生しています。実は菱型で先端には鋭いトゲがあります。その実をゆでて食べたら栗の実と同じような味がしました。





 正福寺の堤(ショウフクジノツツミ)


 ここも水面いっぱい水草に覆われていますが、春先には睡蓮の花も見られます。正福寺の庫裏のすぐ横にあります。写真の高い屋根は正福寺本堂です。農業用水として使われている気配はしませんが、以前正福寺には田んぼがあったそうですからそこへ水を引いていたのでしょう。





2011年7月18日月曜日

口石の溜池(1)平田溜池

 口石は稲作の農村集落ですから、古くから溜池や水路は多くよく整備されていました。最近では構造改善事業により水路も立派なものが出来上がりました。そのせいで使われなくなった溜池や水が全く溜まっていないものも見受けられるようになりました。
 前回、耕地整理の堤を取り上げたので、今回から数回に分けて溜池(地元では堤と呼ぶことが多い)について書いていきます。写真を撮るときになってしまったと思いました。この夏場では背の高い雑草に覆われて近づけないところもあります。溜池を利用しなくなった証拠です。場合によっては冬場に写真を撮り直して差し替えることも考えています。
 最初の写真は「平田溜池」です。普通ヒラタノツツミと呼んでいますが、地図で平田溜池となっているのでそう書くことにしました。口石ではもちろんですが、佐々町でも最も大きな溜池と言えるでしょう。しかし、最近では水深が浅くなり、数年前に浚渫工事がされましたが、貯水量が最も多いとはいえないかもしれません。今では夏場になっても泳ぐ人はいません、水面いっぱいに水草が茂っていてとても入れません。プールがなかった頃には子供たちの立派なプールだったようです。  この池を見降ろす高台に新しく住宅団地が作られましたが、日当たりが良く、人気が高くすぐに全戸新築され、若い世代の人たちが移り住んできました。この池では魚釣りが盛んに行われていました。釣り好きな老人がヘラブナを放流してしばらくしてから見事なヘラブナが釣れるようになりました。その老人はのんびり座りヘラブナを釣っても、ひと眺めしたらリリースしていました。その後平田の池ではブラックバスが釣れるとの情報が知れ渡り、大勢の釣り人がやってくるようになりました。近くの小中学生は自転車で、大人は自動車で、中にはボートを積んできて舟から釣る人もいました。その騒ぎで農家の人は迷惑して「堤体保護のため釣り禁止」の看板を建てたりしました。それも長くは続きませんでした。水草の繁殖が人間の争いをやめさせました。  この池にこんもりとした丸い山が二つ写っています。これを女王卑弥呼の墓と考えてみたい思ったりしました。邪馬台国論争が盛んに行われていた頃、九州説をとる人の中にも長崎県では島原説、彼杵説さらに相浦説を唱える人がいます。ならば「口石説」をとるならばここが面白いと思ったからです。 この池には「平田第二溜池」があります。使わなくなって何年にもなるらしく深い草丈に阻まれてこれ以上は近づくことはできませんでした。

2011年7月11日月曜日

大正2年の耕地整理

 口石には大正2年(1913)に作られた農業用水路が、現在も立派に活躍しているものがあります。耕地整理の堤から口石の上一帯に水田の灌漑用水を提供している水路です。動力は一切使っていないので、水の流れを上手に使ってこの100年間ばかり働き続けています。上流から順に見ていきます。 木場川からの取水口です。太田橋の約150メートルばかり下流に堰を作り、上の写真左側の水路に導き入れています。この水利権は堰を越える水がある時だけしか取水できない事になっているとのことです。 ホテルフェイスの前でトンネルの中に水は潜っていきます。町道木場線とホテルの取りつけ道路の下、長さ約70メートルのトンネルです。堀切にして土盛りで埋めることも考えられますが、この入り口の所では高さ1メートルばかりは石で塞いであり、人間1人が作業するためのものと思われます。 トンネルの出口です。水が貯水池にたまっています。北松浦郡一帯では明治の頃から石炭の採掘がされていて、炭坑の坑道を掘る職人はいたのですから、この水路工事にトンネルを掘るのはたやすいことだったのかもしれません。 トンネル出口の上から見たところです。こちらから見ればかなりの高さがあり、とても堀切で水路を作ろうとは思われません。 ため池(耕地整理の堤)の堤防の上から見た写真です。右奥がトンネル出口の取水口です。ここから見れば、この池に水がたまるのはなぜだろうと思うぐらい雨水の流れ口が考えられないところです。子供の頃、耕地整理の堤でよく泳いでいたという人の話では、近くの平田の堤と比べてもここはかなり深かったとのことですから小さいながらも貯水量は十分あったようです。 堤からの水は土管を使って、田んぼへと配られるのですが、平田の墓地の所(写真の右)ではかなり低くなり、ここから高い田んぼへと上がっていきます。この土管はよく破れて補修に手間と金がかかったそうですが、一部に土管のままの所もあるそうですが、この辺りはビニールパイプを使いバルブの開閉で写真のように放水する事が出来るようになりました。数年前までは、木栓に布を巻いたものを打ち込んでいました。
 このサイフォンの原理で、用水を送るのは、熊本県の通潤橋があまりにも有名で口石のものは見劣りはしますが、立派に役目を果たしています。 最初の田んぼの所(1番高いところの田んぼ)まで来た水は溜め桝から3方向へ田んぼの面積に応じて水の分配が行われている様子が分かります。砂岩に刻まれた水路の幅が、中央:左:右では1:2:4となっています。



 分岐路の近くに、「耕地整理 紀念碑」があり、盤面には、大正二年七月完成、と書かれ、次の人の名前が読み取れます。

 設計者 技手 宮本倉太郎(長崎県の技師でしょう)


 組合長   山本宗太郎(森さんの祖父)

 副組合長 松田藤吉(喜義さんの祖父)

 評議員   山永熊太郎(知さんの祖父)

        森田貞四郎(貞夫さんの祖父)

        藤永健太郎(京一さんの祖父)

        松田與作(実さん父)

        山永ノノ(美義さんの祖母)

        荒木役三郎(泉さんの祖父)

        寺田吉太郎(潜さんの祖父)

        松田武平(武幸さんの曾祖父)

 完成当時の水利権者は10人だったことが分かります。この水利の田んぼは1町歩(1ヘクタール)ばかりだったそうですが、今では、宅地化でかなり減っているようです。
 記念碑そばの田んぼに水を溜めて田植えの準備をトラクターで行っている松田喜義さんは前の水利組合長で記念碑のことを最初に話してもらいました。現在の組合長の寺田潜さんにはトンネルの案内などをしてもらいました。長老の荒木泉さんにはトンネルの存在を教えていただき、昔のことを話していただきました。この3人の方は大正2年の記念碑の名の子孫の方ばかりです。


 設計者の宮本倉太郎さんに関しては長崎県に問い合わせて、調べてもらいましたがデータベースにはなくて、分からないとのことでした。







2011年7月4日月曜日

口石の旧県道(3)ゼンモンバシ

 コロニー印刷の前から旧県道の道は痕跡がつながってはいますが、この記念碑(口石バイパス開通)の所でかなり高くなっています。国道と町道木場線をつなぐバイパスを作るために盛り土をされたからです。

 福由美自動車の前に行くためには下り坂になります。



 この道は田んぼの真ん中を抜ける農道として使われています。
 右に小さい橋が架かっていますが、この農業用水路を渡って国道の方へ旧県道は通じていました。国道は田んぼからするとかなり高いところに作られましたが、旧県道は低いところで木場川を渡っていました。
 上の写真は現在の妙見橋で、その上を横切るように高速道路の橋が架かりました。旧県道の妙見橋は現在のものより少し下流にありました。 国道を作る時、直線的なコースを取り、芳の浦の峠を越えるためこの辺りはかなりかさ上げが行われました。したがって、新しい妙見橋は橋桁が高いものになりました。そこに終戦後の一時期ホームレスが住み着き、ゼンモン橋と言うようになったそうです。今でも妙見橋と言わずにゼンモン橋と言う人もかなりいます。

 
 口石は江戸時代の平戸街道(往還)、明治の旧県道、戦後の国道(204号線)そして間もなく開通する高速道路(西九州自動車道)と新旧4本の道が交差する交通の要所であるといえるようです。