2011年7月11日月曜日

大正2年の耕地整理

 口石には大正2年(1913)に作られた農業用水路が、現在も立派に活躍しているものがあります。耕地整理の堤から口石の上一帯に水田の灌漑用水を提供している水路です。動力は一切使っていないので、水の流れを上手に使ってこの100年間ばかり働き続けています。上流から順に見ていきます。 木場川からの取水口です。太田橋の約150メートルばかり下流に堰を作り、上の写真左側の水路に導き入れています。この水利権は堰を越える水がある時だけしか取水できない事になっているとのことです。 ホテルフェイスの前でトンネルの中に水は潜っていきます。町道木場線とホテルの取りつけ道路の下、長さ約70メートルのトンネルです。堀切にして土盛りで埋めることも考えられますが、この入り口の所では高さ1メートルばかりは石で塞いであり、人間1人が作業するためのものと思われます。 トンネルの出口です。水が貯水池にたまっています。北松浦郡一帯では明治の頃から石炭の採掘がされていて、炭坑の坑道を掘る職人はいたのですから、この水路工事にトンネルを掘るのはたやすいことだったのかもしれません。 トンネル出口の上から見たところです。こちらから見ればかなりの高さがあり、とても堀切で水路を作ろうとは思われません。 ため池(耕地整理の堤)の堤防の上から見た写真です。右奥がトンネル出口の取水口です。ここから見れば、この池に水がたまるのはなぜだろうと思うぐらい雨水の流れ口が考えられないところです。子供の頃、耕地整理の堤でよく泳いでいたという人の話では、近くの平田の堤と比べてもここはかなり深かったとのことですから小さいながらも貯水量は十分あったようです。 堤からの水は土管を使って、田んぼへと配られるのですが、平田の墓地の所(写真の右)ではかなり低くなり、ここから高い田んぼへと上がっていきます。この土管はよく破れて補修に手間と金がかかったそうですが、一部に土管のままの所もあるそうですが、この辺りはビニールパイプを使いバルブの開閉で写真のように放水する事が出来るようになりました。数年前までは、木栓に布を巻いたものを打ち込んでいました。
 このサイフォンの原理で、用水を送るのは、熊本県の通潤橋があまりにも有名で口石のものは見劣りはしますが、立派に役目を果たしています。 最初の田んぼの所(1番高いところの田んぼ)まで来た水は溜め桝から3方向へ田んぼの面積に応じて水の分配が行われている様子が分かります。砂岩に刻まれた水路の幅が、中央:左:右では1:2:4となっています。



 分岐路の近くに、「耕地整理 紀念碑」があり、盤面には、大正二年七月完成、と書かれ、次の人の名前が読み取れます。

 設計者 技手 宮本倉太郎(長崎県の技師でしょう)


 組合長   山本宗太郎(森さんの祖父)

 副組合長 松田藤吉(喜義さんの祖父)

 評議員   山永熊太郎(知さんの祖父)

        森田貞四郎(貞夫さんの祖父)

        藤永健太郎(京一さんの祖父)

        松田與作(実さん父)

        山永ノノ(美義さんの祖母)

        荒木役三郎(泉さんの祖父)

        寺田吉太郎(潜さんの祖父)

        松田武平(武幸さんの曾祖父)

 完成当時の水利権者は10人だったことが分かります。この水利の田んぼは1町歩(1ヘクタール)ばかりだったそうですが、今では、宅地化でかなり減っているようです。
 記念碑そばの田んぼに水を溜めて田植えの準備をトラクターで行っている松田喜義さんは前の水利組合長で記念碑のことを最初に話してもらいました。現在の組合長の寺田潜さんにはトンネルの案内などをしてもらいました。長老の荒木泉さんにはトンネルの存在を教えていただき、昔のことを話していただきました。この3人の方は大正2年の記念碑の名の子孫の方ばかりです。


 設計者の宮本倉太郎さんに関しては長崎県に問い合わせて、調べてもらいましたがデータベースにはなくて、分からないとのことでした。







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