この記念碑は口石田原(通称、森の木)のほぼ中央、佐々病院のそばに建てられています。昭和51年から54年にかけて第二次農業農業構造改善事業の完成を記念して「拓心」として「口石田原開田由来記」が刻まれていますので原文通り紹介します。
口石田原由来記
太古、氷河は山を削り、風は谷を穿って幾星霜。
川は南に北に流れをくりかえす。
縄文人は森の影(キ)の川原に石鏃(ヤジリ)をつくり、川窪に魚を追う。
古代、木場谷の周りに稲作がすすみ、
上代、太田は開かれ、川洲にも鍬が伸びる。
中世、ここに根を張る竜神の楠は伐られ、宗寿庵下に治水開拓の縄が引かれた。
風雪を冒して河岸を固め、田に石垣をつみ、土を搬ぶ村人の努力は、往時の川原を美田にかえ、竹ノ本には塩たく煙が立のぼる。
一四二二年応永二九年と、一四三〇年永享二年の正興寺釈迦如来田畑坪付の中に「久知石四段同屋敷一所」が、佐々地頭源存、当住持比丘来遠の署名で残る。宗寿庵である。
遠く六百有余年前、祖先の手に拓かれた穀倉古田にも機械化の波が押よせ、牛馬に代って耕耘機が音をたてる。
今回関係者一同相議し、農道を拡げ、水路を替え、八字(あざ)一七二枚の田を九四筆の圃場に甦らせ完成した。
農業の永遠の栄を念じてこの碑を建つ。
昭和五一年4月吉日
関係者一同
以上が黒御影石の表面に刻まれています。この文章を書いた人は、当時町会議員(共産党所属)をされていた野田銀蔵さん(故人)です。野田さんは共産党議員として普段から地道に活動をされながら、郷土史や考古学に造詣の深い方で、何度か史跡めぐりを案内してもらった事がありました。
口石に限らず、この地方では記念碑には関係者の氏名を書かない風習があるようです。特に、野田さんの場合、共産党議員と言うことで名前を出しにくかったのではないでしょうか。これだけの文言を作れる人ですから、他からの依頼もあり佐々町内には何基か記念碑があります。いずれも本名はなく、無記名か雅号の「芳崖山人」名です。
関係者は後の時代になっても地権者のことですから誰の祖先だとは分かりますが、やはり記念碑にはきちんと記名する方がよいと思います。尚この石碑を作った石工は佐世保市の佐藤退助さんです。