鹿町橋(しかまちばし) 佐世保市鹿町町鹿町(鹿町川)
現在の鹿町橋のすぐそばに記念碑が建てられています。4本の親柱も残されています。
碑文に詳しいきさつが書いてありますので全文紹介します。
記念碑
昔から川向う西側集落住民は飛石でこの川を渡り雨が降ると飛石が渡られず不便と危険な生活をしていた。耐えかねた住家12戸当時、湯村作太郎氏を中心として話し合いを重ね、村当局の助成を受け、石橋を架けることになり、労力、資金を出し合せ現在の橋の位置に長さ18m、巾3.2mの立派な目鏡橋が完成、集落としては大変な事業であった。集落住民の涙ぐましい協力一致の結晶であり、集落あげて完成を喜んだ。時に昭和2年4月集落の生活は一変して便利な日常生活となった。昭和63年1月鹿町川河川工事のため橋の架け替えとなり近代的な現在の橋となった。橋の取り壊しの折りは集落集まってかゞり火を焚き橋との別れを惜しんだ先祖の功績を賛えるため、記念碑として石橋の両角4本の標柱を残し当時の目鏡橋の面影を偲び名残りを止むものなり
昭和63年4月 集落民一同
この石橋「鹿町橋」の写真が鹿町の郷土誌にありますので転載します。
ここまで調べてきて気になるのが、橋の呼び方です。正式名称は鹿町川に架かる「鹿町橋」ですから問題はありませんが、通称名が碑文では「目鏡橋」(めがねばしと呼ぶのであれば眼鏡橋と書くのが正しい)と刻まれていて、鹿町町が発行した郷土誌では「太鼓橋」となっている事です。
石のアーチ橋を眼鏡橋と呼んでいるのは長崎や諫早にありますが、いずれも2連アーチですから川の水に写れば眼鏡のように見えるので、納得できます。
長崎の眼鏡橋 |
そして、鹿町橋は平戸のオランダ橋(正式名称は幸橋)をモデルにして作ったと郷土誌に記されています。尚、石材は少し上流の船石地区から切り出し、炭坑の台車を使って運んだともあります。
平戸のオランダ橋 |
昭和23年の夏、我々が小学校に入学した年です、台風による水害で鹿町川に架かる他の橋は全て流されてしまったそうです。唯一残ったのがこの太鼓橋だったと、この石橋があったので遠回りしても家に帰り着けたとの話を同年の人から聞きました。
それが、昭和63年には流されても壊れてもいないのに取り壊されて(かがり火で惜しんでは貰いましたが)架けかえられてしまいました。昭和63年といえば、日本が高度経済成長の終盤で、田舎にもモータリゼーションの波が押し寄せて来ていました。道幅は3.2mですから車がすれ違うことはできません。さらにこの盛り上がり橋は敬遠されたのでしょう。平らで広いコンクリートの橋にしようと衆議一決した様子が浮かんできます。
吉井や世知原の橋がいまだに多くのものが残されているのは平らな石橋が多かったからではないでしょうか。もっともダイナマイトで爆破して新しいコンクリートの橋に架け替えられたものもあったそうですが。
最後に現在の鹿町橋の写真を掲載します。
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