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西川内橋(にしかわちばし)佐世保市小佐々町西川内(竹田川)
架橋:大正9年 橋長:15.5m 橋幅:3.5m
佐々町から県道を小佐々町へ向かうと、この西川内バス停の所に古い石のアーチ橋が否応もなく目に飛び込んできます。小佐々町も今では佐世保市に合併しましたが、旧小佐々町内で唯一の石橋です。
現在の県道は上の写真のように立派に整備されていますが、最初の県道はこの石橋「西川内橋」を渡り、干拓の堤防の道だったそうです。ですから、この橋はこの地方の幹線道路として整備されたものです。しかし、当時もそうでしょうが今も舗装はされていません。
この橋も通称は「太鼓橋」だそうですが、今では石橋というだけでよくわかります。
この橋が架かっている竹田川にも早春になると、シロウオが上ってきます。四手網を架ける足場の残骸が少し見受けられます。その河口に「大平炭坑」と書かれたコンクリートの標柱が立っています。左岸の道路は山の方へ登っていきます。昭和40年ぐらいまであったそうで、そこで働いていたという人には何人も会うことが出来ましたが、炭坑の遺構を写真に収めることはできませんでした。道も藪の中に消えて、たどり着くことができませんでした。
口石金比羅さん物語として書き続けてきましたが、今回で終了いたします。来週からは「鎮信鳥居みて歩記」と題して新装開店いたします。http://inouejun1.blogspot.jp/
長崎県北(旧松浦藩内)にある江戸時代に建てられた石の鎮信(ちんしん)鳥居を取り上げていきます。よかったら覗きに来てください。
大加勢橋(おおがせばし) 佐世保市鹿町町大加勢(大加勢川)
鹿町橋と同じように石橋は取り壊されて、コンクリートの橋に架けかえられています。しかも、文化財として指定されていたものを、わざわざ指定解除までして取り壊し新しく橋を架けているのが不思議です。昔の橋の写真をまず。
鹿町町の郷土誌でも、本名の「大加勢橋」よりも通称の「眼鏡橋」とあります。2連でもないのになぜ眼鏡橋といったのでしょうか。鹿町の太鼓橋と違って橋の上は水平になっています。次に現在の橋をお見せします。
ほぼ同じところに護岸工事はされているけども同じように架けられています。幅は狭くて自動車はすれ違うことはできません。平成14年に竣工したと記されています。文化財を解除したのが平成12年ですから、2年ほどはもめたのかもしれませんね。現在の大加勢橋はなぜかもう一つすぐ横に大加勢川に斜めに架かっています。
こちらが県道の大加勢橋です。ほとんどの車はこちらを通り昔の石橋のところの大加勢橋は通りません。バス通りもこちらで、消えかかっていますが、中央線もあります。こう考えてくれば、なぜ石のアーチ橋を文化財を指定解除までして取り壊したのか分かりません。しかも、高度経済成長のさなかならいざ知らず、平成12年を過ぎてからですから、不思議でなりません。建設会社の利益のためだったのかも知れませんね。ここで古い写真をもう一枚
昭和30年代の写真です。この欄干が見える橋がバス通りの大加勢橋の昔のものです。右奥の2階建ての建物は西肥バス大加勢営業所といっていました。下はバスの車庫で2階はバスの車掌さん(全員若い女性)の宿舎でした。左側のしゃれた建物は映画館です。当時は最大の娯楽施設でしょう。「加勢会館」と読めます。私も高校1年の時、一度だけここに映画を見に行った事があります。加勢会館は同級生、静川祐司君のお父さんが経営していたので、只で見に行くことが出来ました。この写真を見ても雨上がりの水たまりの道を、続々と詰めかけているのが分かります。現在の写真を次に示します。
西肥バスの車庫は全く昔のままです。映画館は跡形もありません。映画を見に行った時は、江迎から大加勢までのバス代は映画よりも高かったと思いますが、当時の高校生のバスの定期は1度しか乗られないように、日にち指定の回数券みたいのを切り取っていました。ですから学校が休みの時は無駄になっていたのを貰ってバスに乗って行ったのを思い出しました。それにしてもこの車庫はよく残っていてくれました。2階は全く使われている様子はありませんが。
石橋の大加勢橋を取り壊した石は鹿町町の体育館の裏に番号を打って置かれていました。適当なところがあれば橋をかけ直そうとの考えもあったそうですが、平成19年になって行き先が決まりました。鹿町町の船の村にある遠海山・潮音院というお寺の側壁を飾る事になりました。すぐ近くに海と九十九島国立公園が見える風光明媚なところです。遠海山というよりは近海山といった方がふさわしいようなお寺です。
安住の地を見つけたのでしょうか、橋というよりは、モニュメントといった方がよさそうです。台形の石が互い違いにはめ込まれています。
中野橋(なかのばし) 佐世保市鹿町町船の村
鹿町町に現存する石橋はこの中野橋唯一つです。
明治33年に鹿町村の縦貫道路が完成しますが、やや遅れて大正3年になり、頑丈な石のアーチ橋として架けられました。橋長8.6m、橋幅3.7mの小ぶりのものですが、約1カ月の工期と188円の工事費を要したとの記録が残っています。
この橋が架かっている道路は、その後別ルートの県道が整備され、主要道路ではなくなりました。さらにすぐ横に新しいコンクリートの橋が架けられ、人も車も今はそちらを通っています。それでも1枚だけの田んぼに行くにはこの橋を渡らなければならないので、農作業用道路としての役目はしています。今まで知らなかったのですが、「まちづくり景観資産」などというものに長崎県が指定していますので、観光には一役買っているのでしょう。