2010年6月28日月曜日
昭和4年の議事録(区長村会議員に当選)
初集会事項
1.計算報告 区一同証任通過を得る(原文のまま)
1.協議員改選は半数を改選して再選をなさざる事
1.当□(1字不明)改選協議人 大浦信一(国昭さんの祖父) 松田幸四郎(武幸さんの祖父)に定む
1.区集会□□時間
1.出不足の時間遅刻を取る事 1時間遅れた者は金10銭宛を徴収する事
1.納税励行の為の納税組合を確立し、組合長を選立して区中納税を完納せしめる事
1.区割米は村の標準米を基準とし出米の事
4月1日、区長藤永藤七氏、村会議員当選に付き区長を池田新に引譲り、引次ぎは4月5日夜にあり
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大正9年の総会での区の決定事項の中に、集会の遅刻者に対する罰則が細かに記されていたのは、すでに書きましたが、会計帳簿では罰金(罰米ではあるが)をとった記録はありません。当時の人々は時間をよく守っていたのでしょうか。
戦後はその反動で遅刻する人が多くなったのでしょうか。私が口石に転居した昭和50年ごろは「口石時間」といって30分ぐらい遅れないと集まらないことがたびたびありました。
この年の議事録には集会に関してではなく、作業に関して遅刻者に罰金を科すことを決めています。実際にはどのくらい罰金をとったのでしょうか、当時は男がいる家族のところは女が出た場合は差額の出不足を出さなければならない事になっていました。集会には出て来ても、作業になると遅れてくる者がいて不公平だという人がいてこのような1時間に付き10銭の罰金となったのでしょう。もうこの頃になると、米よりも現金の方が取りやすくなっていたのでしょうか。
その後に、区割米(現在の町内会費のこと)は村の標準米とする事と決められているのは、売り物にならないようなクズ米を出す人がいたからでしょう。
写真はこの年区長から村会議員に当選した、藤永藤七さんが眠っているお墓です。赤色のアフリカ御影石の立派なものです。長男の勝之さん(藤永地建の創業者で社長から会長をされた)が平成元年に建てられました。
2010年6月21日月曜日
寄留人(きりゅうじん)について
町内会長になって口石町内会の引き継ぎ書類の中に、権利証や契約書類を綴じたものがありました。詳しくは見ていなかったので、先日最後までめくっていったら、「寄留証綴」というのが見つかりました。
上の写真が表紙で、鉄のホッチキスで留められていたところが錆付いています。
これは山永家に寄留していた竹内竹蔵さんが書かれたものです。竹内隆美さん宅のお墓に入っておられるとのことで、親戚には間違いないけど直系ではなさそうだとの話で今となってはもうわからないとのことでした。
上の写真が最後に書かれた昭和2年の「寄留証」です。昭和2年の議事録で尾崎家に寄留する産婆さんの寄留金を半額とする旨の記録があるのでこの人に一致します。
寄留人は寄留金を区にも払わなければなりません。昭和2年の会計記録によると寄留8名分30円となていて、1名は半額とする記事もあるので、寄留金は1人あて4円となります。一般の区民の区割(今でいう町内会費) は米で1人当たり5升、76人分98円80銭とあります。すると1人当たり1円30銭となります。米5升の金額も1円30銭ということになります。何か釈然としないものがありますが、寄留人が区民よりも3倍以上の金額を出していた事になります。家主には家賃を払っていたでしょうし、身元引受人との連名で「区の規約を守り、違反したときはいかような処分をされようとかまいません」と候文の証文まで入れさせられていました。
今思えばかなりの差別的扱いではないでしょうか。戦前はこんなことが当たり前だったのかもしれませんね。その反動か、私が移り住んだ昭和50年ごろは、借家住まいの人は出不足金は家持ちの人の半額と決められていました。その後変更になり、現在は一律に同じ金額になっています。
口石は江戸時代の武士階級の人もいますが少なく、塩田作りのため四国は阿波の国からとか、忠臣蔵でおなじみの赤穂から移住の人がやって来たとの言い伝えがありますが、純然たる稲作農家中心の集落でした。最近は少し変わって、佐世保市のベッドタウンとして農地を宅地化して、移り住む人が増えてきたところです。
2010年6月14日月曜日
昭和3年の議事録(昭和天皇御大典行事)
初集会に於協議事項
1、役員の改選 選挙結果
区長重任 藤永 藤七
代理 々 横田安之助
評議員々 森田 祖助
〃 森田 源八
〃 池田 新
新任 末永惣太郎(文代さんの祖父)
以上
1.清算報告 区一般 証認通過
2.三柱神社境内普請、村評議の為当区より2名の評議員を出す事□(1字不明)は御大典記念事業 両村会議員に頼分 藤永市五郎氏、志方重太郎氏
3.苗木注文の件
4.2,3月に掛子富田付近里道修繕の証認
5.山永熊太郎宅山永亀四郎の分家の相談の件 証認を受く
6.真藤猶七氏病気為諸出合免除の件 証認
7.各講分手わけして道作等折出不足を取りたる場合、其の講の評議員に依て保管積立をなし置く。必要に応じて出し入れをなし初集会に於て右積立金の出し入れの報告をなす事
8.里道修繕の折、木場山炭坑軌道、従来苦情を来し居りし所、本年より炭坑より春秋の2回手入れを区に引き受けなすため、酒1斗2升を区中へ出す契約の許に解決す
9.不幸の折りは従来7つ迄は半葬式の所之を変更し
1ケ年以上者死去の折りは本葬式と改む
百日以上1年未満の者死去折、半葬式と改む
昭和3年7月15日
区集会に於 協議決定
1.牛馬の墓地を野坂の牛墓地定め置く事
2.不幸の際従来は悔み人に飲食をなさしめる事有りを以後は、絶対廃止なす事 春夏秋冬共
3.書いてはあるけど線で消してあります
4.普通、慰座当とし養子、嫁入なしたる人の親の不幸の時焚き出し沢山の人見舞に行き、飲食を供にする風有りを之を絶対に廃止す
之も加入者一金20銭を出し合て施主、特掛
5.越木岩の草場は福本元三郎氏へ
1斗5升 売却
6.寄留金の事に付き協議
口石区、人出入多き場所故色々規約はあるも其の時の区役員に於て適宜の処置をなし規約にもとらぬ限りの範囲内に処理なす事然れ共、寄留金成る可規定分は取事
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昭和3年は昭和天皇が即位をされる御大典の行事がほぼ1年をかけて行われています。佐々村でも1月の初集会で役員改選、会計承認の次に、御大典の記念行事の区代表2人を当時の村会議員2名にお願いしています。
藤永市五郎(博輔さんの祖父)と志方重太郎(重憲さんの祖父)です。子孫の方に聞いたら聞いた気もするがはっきりしないということだったので、佐々町の議会事務局に尋ねてみました。当時村議会の議員は18名でその中に両氏の名前もありました。
藤永市五郎さんは前出の「木場山炭坑」の経営もされていました。また志方重太郎さんは前出の口石の芝居小屋……町の郷土史によると大正8年に「口石劇場」としてできたそうです……の代表をされています。もともと両氏は農家です。
写真は三柱神社境内に、この年建てられた記念碑です。古ぼけて文字は読みづらくなっていますが、右から左へ「大禮奉祝記念」とあります。日付は昭和3年11月10日となっています。神主さんに電話で聞いたらそんなのがあるかどうか知らないとのことだったけど、本殿のすぐ近くではあるけど、ほとんど目立たないところに他のものよりは小ぶりでありました。藤永市五郎さんは委員と氏子総代として、藤永藤七さんは区長としてこの記念碑に名を連ねておられます。
このころは小さな子供が死んだ時は当たり前の葬式はしていなかったようですね。7歳までは半葬式としていたところを、この年から改めて満1年以上の場合は本葬式をして、100日以上1年未満の場合は半葬式をする、と決めました。半葬式の時は香典も半分だったそうです。子供が親よりも早く死ぬのは親不孝者という考えがあったのでしょうね。
寄留金のことに関しては長くなりそうなので、次回に回します。
2010年6月7日月曜日
昭和2年の議事録から(倉庫建設)
区用倉庫建設
一、金315円也 大工手間請負増工事共
一、金103円 敷地20坪6合(横田)安之助氏より購入代
一、金 19円 敷地石 石工手間迄
一、金 17円 コンリトー(原文のまま) 砂利代
一、金 5円 仝 砂代
一、金 10円 棟上げの時大工祝儀出し
一、金 10円80銭 棟上げの時の酒肴代
一、金 6円 セメント一樽代
一、金 6円 日役人夫6人役
一、金 5円 レール1本代
一、金 4円54銭 真藤鍛冶出□(1字不明)
一、金 4円 棟上投穂代
一、金 3円30銭 錠カギ一丁代
一、金 10円 雑費消耗品代
計金518円64銭也
其の他人夫は実行委員3日宛出夫の上落成す
以上
昭和2年度置ける事業
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この年は橋の架け替え工事、倉庫の新築工事それぞれの落成式、祝賀会、さらにはその資金集めと、役員さんたちは大変だったのでしょう。5月15日以降の記録は議事録にはありません。会計帳簿にはありますが。
この倉庫の建設は、もちろん必要があったからでしょうが、森木橋の架け替えをして佐々村からの2/3補助や、村山が思ったよりも高額で売れたことなどで、金がかなり残り、あるうちに作ってしまおうという事だったのかもしれませんね。この倉庫も現在は跡かたもありません。
この写真は昔の倉庫が建てられていた場所です。昨年9月に現在の口石集会所の基礎工事にかかったとき、地中から変なものが出てきたと工事業者から話があり見に行きました。鉄パイプがかなり深いところまで埋められていました。掘り出してしまうには大変なので、地表から1.5メートルぐらいのところを切断して埋め戻しました。この鉄パイプは存在自体を知っている人は口石には皆無でした。
旧軍の施設ではなかろうかと推察しました。直径約60センチ厚みは3.2mmで少しテーパがかかっています。周りは分厚いコンクリート(写真にあるもの)で固められていました。コンクリートを重機で割って取り除いてもまだ下に埋まっていました。おそらく、高さが20メートル以上の無線塔ではなかろうかと推察しました。
するとかなり後になって、戦時中この倉庫を旧軍が接収して、食料を入れていたのを思い出したという人から話を聞くことができました。
食糧難の戦時中そこに忍び込んで砂糖を盗み出した若い兵隊がいて、運悪く見つかり、散々痛めつけられとうとう死んでしまったそうです。その後その兵隊は戦死者扱いとなったそうです。
この鉄パイプはまだ数メートルは埋まったままになっています。私が見たときも空気から遮断されて埋まっているので、痛むことなくきれいな状態でした。今後も何も言わずに眠り続けることでしょう。