上写真の帳面も気付きはしたものの「区割取り立帳」2~3枚めくったけど町内会費の集金帳と思いそれ以上は吟味しませんでした。最近になって読んでみたら、昭和18年から昭和32年までの金銭出納帳があり、いわゆる戦時中(大東亜戦争)のことが分かる内容もあり資料として価値あるものと思うようになりました。これからは議事録とこの金銭出納帳の具体的な支出の内容を照らし合わせながら記述していく事にします。
表紙をめくったら口石部落……明治初期は触(ふれ)、その後区(く)と呼び戦時中に部落(ぶらく)となり、昭和50年代になり町内会と呼ぶようになりました。……127戸の名前が班長を先頭に書き並べてあります。今生存されている人は皆無です。昭和50年に移り住んだ私がお会いした方は10名ほどです。
昭和18年1月30日、1月の127戸分の区費88円90銭(1戸70銭)で始まっています。本来なら、1万円以上の繰越金があるはずなのですが、この年1月7日の初講で1戸当たり100円宛払い戻して、残金を財産組合を作りここへ移して、部落の会計とは切り離しています。これまで行っていた金貸し業務もやめてしまったようです。
この記録で不思議な事があります。口石の班は最近になって新しく宅地造成されて3班増えました。それまではずっと8班のはずなのに、昭和17年、18年に12班あります。議事録では18年の8人の班長は評議員を兼務するとなっています。したがって年間の班長手当は25円です。12人いる班長は何だったのでしょうか。1名だけ両方の班長をしている人がいます。全体として8人の班長は年長者が多いようで、12人の班長は比較的若い人みたいです。戦時中の向こう三軒両隣と関係があるのでしょうか。議事録にある「防空郡」と関係があったのでしょうか。長老の方に尋ねましたが分かりませんでした。
ネットで調べてみたら分かってきました。この記録帳の表紙に「隣保班長月末集金」とあるので隣保班を調べたら戦時中にあった組織で部落、町内会の下部組織で10戸ぐらいで編成されていたようです。隣組の組織で助け合ったり防空防火にあたり時にはお互いの監視もしたりしていたそうです。ですから今までの班とは別に口石でも作られていたのです。戦後はなくなったのですが、現在でも「リンポハン」と言う人もいます。
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