2011年4月25日月曜日

ステンレスの鳥居

 金比羅山右側の緩やかな登り口には、ステンレスパイプで作られた鳥居があります。これが出来る以前は木製の鳥居がありました。口石には昔から村山があったので、ここから杉や檜を切りだして地元の大工さんを中心に鳥居を建てていました。ほとんど生木を使っていたので、材木の腐敗が早く数年毎に作り替えていました。  あるとき、鉄工会社勤務の淡田邦夫(現町会議員)さんが宮総代の横田義之さんに相談したところ、金属の鳥居でも構わないと宮司さんからの返事だったとのことで、製作に掛ったとのことです。そしてできたのが下の写真です。    直径100ミリのステンレスパイプが使われています。接続箇所には少し大きめのパイプがわずかに使われています。淡田さんは勤務時間に作るわけにはいかないので、公休出勤をして作ったそうです。溶接は長崎県1の腕前と言われる人にやってもらったそうです。ところどころに仕上げのサンダーをかけた跡が見られます(下写真)。材料代として会社に支払った金額はずいぶん安かったと当時の会計担当だった永石善吾さんは言われました。  この鳥居には何の文字も書かれていません。あの時刻印を打っておけばよかったと淡田さんは悔んでいます。横田宮総代、永石会計とのコンビであれば、平成15年もしくはその前後1年で間違いはありません。    現在では登りやすいことから、石の鳥居よりもこのステンレスの鳥居の方が良く使われています。この登り口一帯はツツジや桜などの植栽もされて、公園となっています。4月と9月のお祭りの日にはそれぞれの鳥居のために数10人がかりで2本の大しめ縄を作っています。  
 鳥居といえば最初は木で作られ、石作りとなり最近はコンクリート製が増えてきたようです。金属製の鳥居で有名なのは銅(かね)の鳥居として吉野山の金峯山寺のものは全国的に有名で、世界遺産にもなっていますが、九州では英彦(ひこ)山の青銅製の鳥居(1637年建設)も国指定の重要文化財になっています。(下の写真)
   ステンレスの鳥居はこの銅の鳥居にも負けないくらい長生きするのではないでしょうか。やはり刻印を打っておくべきではないでしょうか。



2011年4月18日月曜日

石の鳥居

 口石金比羅神社の山に向かって、左側の階段の登り口に石でできた鳥居があります。昭和54年4月に建立されたものです。この建設については昭和53年度の総会、昭和54年2月11日の議事録に記入がありますので、引用します。  

4.金比羅神社鳥居再建の件    

部落長及び氏子総代により内容説明あり。
  
 ◎2月3日佐藤石屋さんと契約され4月10日頃までに出来あがる様にとの事にて事前に話し合いをなした。
  
 ◎建設委員会を発足させて運営がなされて居る様に決定致しておるそうです。
  
 ◎鳥居本体80万円(建設費)
  
 ◎基礎工事は松野氏より奉仕あり。
  
 ◎部落民への御協力を御願致します。
 

 とあります。たしかに寄附を町内に呼び掛けて予定金額をかなり上回って集まった事を覚えています。
 
 鳥居左足の裏側には、石工 佐藤退助 と彫られています。佐藤さんは佐世保市で営業活動をされていますが、奥さんは口石の方です。佐世保から北松方面にかけて佐藤さんが手掛けられた石碑や石塔はたくさん見受けられます。
   
 この鳥居の右後ろに、写真のような古い鳥居の片足が1メートルばかり残されています。新しい鳥居を建てた時、古い鳥居の足に彫ってある建設時の発起人の名前が砂石ではありますが、はっきり読み取れます。  右から
 
 発起人 藤永東三 山永三太郎 山永熊太郎 松田武平 松田政五郎 藤永市五郎 藤永新三郎 尾崎富七 友田樫太郎 永石作一 志方兼吉 横田十三郎 永石善作 池田伴七 


 の14名の名前です。
 このブログをはじめから読まれている方は何人かの名前は思い出されるかもしれません。私の場合、数名の人が分からなかったので、お年寄りに聞いて回りましたが、全部は分かりませんでした。今では子孫の方が口石に居られない方もあるようです。  いずれも旧家の方ばかりですから立派な石塔の墓があります。戒名塔を見れば亡くなられた時の日付が数名の人で分かりました。早い人で昭和8年に68歳で亡くなっておられます。明治の初めかその少し前の生まれとなります。となれば、明治の後半から昭和の初めにかけてこの古い鳥居は建てられた事になります。鳥居の上部は崩れても足に彫った名前は当分は残りそうです。

2011年4月11日月曜日

昭和33年度の議事録②(最後のページ)

 昭和34年2月15日 部落総会   (記録係 森田朝一)

一、役員改選(座長 山本藤蔵)
   
部落会長 森田吉三郎  36票
   
副兼会計 山本 森    41票


二、協議事項
   
1.敬老会補助決定  3000円以内
   
2.腕用ポンプ処分の件 消防団へ一任す
   
3.消防機具庫町移管の件
   
4.差し合わせの件
      
50円に決定(1ケ月以上の者)、生後1ケ月以内の人は無し
   
5.戦病死者慰霊祭部落□当に決定す。補助金7000円以内
   
6.厄年の人厄除の件
      
男女共に部落単位にて行うぶく決定す
      
日時場所等役員に一任す、其の他方法等同じ
   
7.出不足は1日200円とし、女を8合と認む。集会は男子と同等とし(総会を除く)出不足は取らない

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 大正9年に書き始められた和紙を綴じたこの議事録はこのページでおしまいになりました。途中読みづらいところもありました。最初の頃は達筆な筆字は良かったのですが、戦時中から終戦直後には、物資の枯渇があったらしく、ペンやインクの質が悪く滲んだりかすれたりしています。やはり和紙には筆字が似合います。下の写真は昭和21年の分です。

 その後の議事録はもちろんありますが、普通のノートにペン書きのものです。最近のものには、パソコンで打ち出したものもあります。私も何度か記録係や議長をしたりした記録があります。最近の出来事で特にここで取り上げるほどのことはありません。


 今後は議事録から離れて、記念碑的なものを写真にとり、口石町内から佐々町や近隣のものを紹介していく予定です。

2011年4月4日月曜日

昭和33年度の議事録①(森の木延長道路完成)

 4月5日 半坂道路落成に付き公民館に於いて竣工式を催す。役場より町長、土木課長、土木技師、土木委員長を招待。  費用、酒1斗2升6000円、肴折詰(1人150円)20人分で3000円、諸雑費約2000円、計12000円也。盛会裏に終わる午後2時より、5時にて万歳(婦人部の料理)  

4月13日より森の木延長道路工事に着手する。各班別にて実施、1戸2日平均にて完了
延べ日数11日  

4月23日完了  釘代1メ目400円、土管1本420円
延べ人員  男210 女163 計373人 受益者 松永役太郎氏、前川輝之氏より酒3升、池田義彦氏肴代寄附、志方栄一宅を借りて完成式を行う。女の人には部落よりパン50個支払う。  

7月16日 役場より95000円森の木延長道路補助金として貰う。
 

7月26日 見返橋鉄材撤収実施。消防団労力奉仕に依り1日にて終了する。
 

9月25日 消防ポンプ入魂式(公民館に於いて)
  ○役場関係招待者 約40名  ○部落招待者 各種団体長を含めて20名 ○消防団員35名 ○部落班長10名 計99名  料理一式婦人会にて仕出し1人400円の割 費用 39900円  部落寄附金45000円あり 酒2斗9升★★ 折詰、肴、赤飯 其の他

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  森の木道路延長工事に付いて詳しく書かれていますが、今では考えられない事です。森の木道路は田んぼの作業道路です。部落民総出で作業をしたり、部落の金を使っています。当時は兼業を含めたらほとんどの家が農業にかかわっていたということでしょう。現在では口石の専業農家は2戸だけと思われます。それにしても当時、数人の受益者しかいないのに部落総会で決議して、全員で作業して作ったのですから助け合い精神は大したものです。

★ 見返橋鉄材撤収とありますがこれは、見返橋は前年に架かったばかりですから明らかな間違いで、見返橋のすぐ上流の佐々川に架かっていた「軽便鉄道」の鉄橋の鉄材を外しに行った事のようです。すぐ横には国鉄臼の浦線の鉄橋も架かっていましたが、これは昭和46年12月に廃止になるまでは使われていましたから外すわけはありません。

 上の写真は現在の見返橋(昭和32年9月開通)です。手前に橋桁跡が2つありますが、右側(上流側)が国鉄臼の浦線の鉄橋跡で、左側が軽便鉄道の鉄橋跡です。この軽便の鉄橋跡は近くの人は海軍さんの作らした橋といっておられます。使わなくなった鉄橋の上に板をはり土を固めて車も通れる橋にしていたそうです。この奥の長崎山と呼ばれる所に軍の倉庫(弾薬庫)があったので急きょ海軍が作ったのでしょう。もちろん一般人は通行できませんでしたが、戦後には一般開放されたそうですが、板は腐って危なくて通りづらかったといわれています。ですから戦時中までは、この辺りには渡し船があり、その時の飛び石とか階段の名残がわずかに偲ばれます。


 ところで、橋の鉄材撤収の件、口石には鍛冶屋が2軒あって、この人たちも行き、消防団の若手が加勢をしたのですから1日かかって長い鉄材を3本運んできたそうです。その後問題になり返却したそうです。使っていない鉄橋でも国鉄(国?)のものですから簡単には貰えなかったようです。



★★ 消防ポンプの入魂式では100人ばかりの招待客で2斗9升、その前の半坂道の落成式では3月の総会では御払い程度簡素に行うとなっていたところを、4月には関係者を招待して1斗2升飲んでいます。やはり簡素にやっています。昭和2年の森の木橋の開通式では6斗5升とは比べようもありません。最近では酒の量はもっと少ないでしょう。