2011年6月27日月曜日

口石の旧県道(2)キャードバタ

 順手橋を渡るとすぐに口石小学校の校門に続く国道の横断歩道になります。ちょうど新1年生の下校時間でした。黄色の帽子が目印です。
 ここに第十三高等小学校が出来た頃には、当時の小学生は、国道などはなく、平戸街道から分かれて出来たばかりのこの県道を通って通学していたのでしょう。  信号待ちのすぐ後ろに記念碑がたっています。当時の記録を読んだら、かなり年を喰った小学生もいたらしく、ヒゲをはやしたものもいたそうで、黄色の帽子の子供たちを見ていたらおかしくなってきました。
  この国道を左へ行けば佐世保です。この写真一帯の国道筋を地元の人は「キャードバタ」と言っています。街道端がなまった言葉でしょう。この街道は平戸街道ではなくて、新しくできた県道のことだと思われます。最近言っている平戸街道は昔は街道とは言わずに「往還」と言っていたようです。   このあたりには、いろんな商店が軒を連ねていました。雑貨屋、酒屋、魚屋、肉屋、自転車屋、床屋、履物屋、質屋等は最近までありました。以前には鍛冶屋、時計屋、写真館、ラムネ屋、ぼたもち屋、居酒屋、料理屋さらには芝居小屋や遊女屋まであったそうですから相当に賑っていたようです。現在は雑貨屋と米店と不動産屋があるだけとなりましたが、最近、ドラッグストアと格安床屋ができました。

 口石の中心地、閉店した酒屋の所です。左へ行けば木場です。平戸街道もここを通っていました。木場炭坑のトロッコ道にもなりました。旧県道はもう少し国道と同じ道を進みます。この地点は平戸街道、旧県道、現在の国道さらにはトロッコ道まで重なり合う地点です。

 国道から左下へ下っている道が旧県道跡です。ここには印刷屋さんがあります。自動車整備工場もできました。







2011年6月20日月曜日

口石の旧県道(1)ジンデバシ

 江戸時代から明治となり、人々の生活は一変し、新政府は新しい道路建設に乗り出しました。この辺りの幹線道路は平戸街道から県道へと変わっていきます。
 佐世保から田平への県道が計画された時は、小浦から志方を通って江迎へ行く案が最短距離で提案されたそうですが、地元民の反対で立ち消えになり、口石を通って行く現在の国道と交差するものになったそうです。最近では志方を通る道路が高速道路「西九州自動車道路」に直接つながる道路が江迎から出来上がりました。
 もし、最初の県道が口石を通らずに、志方へ行っていたら、今の口石は志方みたいに農家だけの集落になっていたのかもしれませんね。 


 上の地図の赤い縦の線が現在の国道204号線です。平戸街道(点線の道)は口石から半坂道 を通って山の中を通っています。昔の武士が考えたのは、防衛のためとのことで、谷間の道は通らずに、尾根筋の見通しがきく所を通っています。
 旧県道は明治20年に着工して21年に開通したと佐々町の記録にはあります。黒い実線で示したものが当時、最初に作られた県道です。安上がりに早く作ろうと地形に沿って曲がりくねっていて、旧街道も利用しています。その後、改良されて現在の国道へと移っていきます。
 口石の入り口、新町の交差点です。右側の道路が国道で、真ん中の細い道が旧県道です。道幅は2間(3.7M)だったそうですから平戸街道の1間半(2.7M)からすれば少し広くなりました。 ここは、平戸街道を利用しています。この分かれ道で左へまっすぐ行けば正福寺へ行きます(平戸街道)。県道は右へ曲がって口石小学校の校門前に向かいます。
 途中の橋は「順手橋」じゅんでばしと読むのでしょうが、地元の人の発音では「ジンデバシ」とも聞こえます。
 上の写真は佐々町郷土史のものです。旧県道の「須手橋」とありますが「順手橋」が正しいようです。当時の橋は石橋だったのでしょうか。  現在は、きれいに護岸工事もされた順手川と順手橋、そして農業用水の取水のための堰も見えます。新しい住宅と舗装道路ばかりですが、少し前までは田んぼばかりの所でした。



2011年6月13日月曜日

口石の平戸街道(3)駕籠立て場

 写真の堤は、大山口(おおやまぐち)の堤と呼ばれています。この半坂道は街道ウォークの中では最も難所と言われています。平戸街道は山越えの道ばかりですから坂道ばかりと言っていいでしょうが、特にここの坂の勾配いはきつく距離もあります。この堤は大きな山の入り口の堤ということで名付けられたのではないでしょうか。




   この山の中にも分かれ道があり、民家もあります。
 峠の頂上が見えてきました。ここに駕籠を下して殿様が一服されたそうですが、駕籠を担いだ人がもっと大変だったでしょう。 平戸街道の駕籠立て場跡は、史料では14か所あるそうですが、現在分かっているところは10か所でそのうちの1か所です。口石と佐世保市の境目の所にあります。ここには立派な石に刻まれた標識が出来ました。この辺りは早春からフキノトウ、ワラビ、ゼンマイ、ツワブキと山菜の豊富なところです。 ここから殿様が眺めたと言われる景色です。佐世保富士(愛宕山)や九十九島も見えてなかなかのところです。


 以上、平戸街道(当時の人は平戸往還と言っていたようですが)の道筋については、毎月ウォーキングを行っている「平戸街道ネットワークの会」の資料にもとづいて書きました。佐々のお年寄りの中には、別の道を指摘される方もおられます。あの木は一里塚の木ではないと言われる方も聞いたことがあります。また、江戸時代は200年以上も続いたのですから、その間には道筋も移り変わったことも考えられます。今となっては確実な事は分からないのではないでしょうか。


2011年6月6日月曜日

口石の平戸街道(2)一里塚

 平戸街道には一里塚跡が13箇所残っています。とはいっても跡形は何もなくこの辺りにあったらしいというところもあります。しかし、およそ4キロメートル間隔ですから推測しやすいものです。
 その中でも、口石一里塚跡は、平戸街道の中で当時の木が残っている唯一のものです。幹回りはそれほど大きいものではありませんが、榎の古色蒼然としたもので、根の部分には丸いコブがいくつも付いています。昔は、土盛りをして1メートルぐらい高いところにあったものを道路などの拡幅時に根を切ったあとではなかろうかと推理されています。




 



 私が現職の時、家庭訪問で尋ねた事がある家で、そのとき大きな木がある所と聞いていて、カーナビなどなかったけどすぐに分かったものでした。初夏の写真では鮮やかな新緑がまぶしいほど勢いがありました。
 このあたりの道は石炭産業が盛んなころは、レールが敷かれ石炭を積んだトロッコを海岸まで人力で運んでいたところです。上の写真の龍開(りゅうがい)の標識の所で木場道から分かれて、半坂道へと入っていきます。 ここに架かっている橋は森の木橋ですが、当時は飛び石だったのでしょう。

 現在の街道ウォークではこのまっすぐな半坂道を歩いていますが、当時はもっと田んぼの端を通っていたと思われます。