2011年12月19日月曜日

口石の記念碑(5)三部妙典塔

三部妙典塔と浦瀬尼の墓
 正福寺本堂左手の墓地に三部妙典塔と浦瀬尼の墓があります。右側の塔には説明が記されています。難解な文章ですが、佐々町郷土史に解読したものがありますので、これを参考にします。




 私は東の都、つまり当時の江戸の生まれであるが、豊功院様に幼少の頃から奉公し、文久三年(1863)に思いがけなくこの地、即ち佐々に住む事になり、年も老いた。小佐々から小石を集めて来て、三部経を一つの石に一字宛書き、智恩報徳のために、清流山正福寺の境内に埋める。





        慶応三年六月廿九日   浦瀬尼





 豊功院(ぶこういん)様とは平戸松浦藩の九代目藩主の松浦清(静山公)のことです。静山公は「甲子夜話」の著者として有名ですが、子供は17男16女と大変にお元気で、娘の愛子さまは明治天皇の祖母になられます。浦瀬尼は口石下の末永家の所に小屋を建てて住まれていたそうです。その家はごく最近まであったそうです。口石では浦瀬さまとか「お部屋さま」と呼ばれて、絶世の美人であったと伝えられています。静山公の大勢の側室の一人ということでしょう。公は天保12年に亡くなられていますので、その後剃髪された浦瀬尼は22年後に口石に来られています。 この塔の左側面には次の短歌が彫られています



   あらとふと弥陀の御法字伝へんと



      数かきのこす一もじの石



         辞世



   雲きりもあらぬ御国に住まいなば



       此世に増してたのしからまし




 この塔の左側には了玄院釈淨信浦瀬大姉と彫られたお墓が明治9年に建てられています。 尚、静山公のお墓は東京にもあるそうですが、平戸にも分骨されて歴代の殿様の墓は雄香寺にあります。豊功院殿静山流水大居士という戒名になっています。
 この静山公の墓には早く亡くなった正室と連名の戒名が記されています。

2 件のコメント:

  1. こんにちは。
    毎回、興味深く拝見させていただいております。

    今は「碑シリーズ」なのですね。
    赤崎橋(メロディ橋)の脇にも碑がありますね。
    炭田災害復興がどうとかこうとか書いてあります・・・
    あんなところに炭鉱があったなんて信じられませんが本当のところはどうなんでしょうか?

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  2. 炭坑はこの辺りには、いたるところ縦横に掘っていると言われています。あちこちの家が傾いたり、田んぼの水が漏ったり鉱害はずいぶんありました。

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