架橋:大正15年 橋長:14m 橋幅:3.5m
小学校6年生の時、福井分校から本校の吉井小学校に行くときには、この橋を通っていました。今では、バイパスが出来てこの橋を通る人も車もめったにいません。大型のアーチの曲線は美しく、まわりの田園風景に溶け込んでいます。
この橋の少し上流にコンクリートの3連アーチの鉄橋「福井橋梁」があります。バイパスはその真ん中を通っています。この鉄橋は戦時中に作られ、資材不足のため鉄筋の代わりに竹が使われていると小学校の時、担任の先生が話してくれました。最近、大学の研究チームが調べましたが、竹が使われているとも、使われていないとも結論を出しませんでした。 地元の人たちは竹が使われていると思っています。
この橋は、佐世保市の文化財になっているので立て看板があり、説明がされています。



現在この橋は中央分離帯が設けられて、歩道橋も併設されています。石橋部分は写真の右の車道で、左側の車道と歩道はコンクリートの橋です。橋のこちら側には吉井南小学校と中学校がありますので、朝夕には大勢の児童生徒がこの橋を通って通学しています。


この写真は東京の日本橋の現在の姿です。高架の高速道路が邪魔をしてお江戸日本橋も今ではぱっとしませんが、この橋をモデルにして樋口橋は架けられました。はじめは白い御影石の欄干があったそうですが、昭和の水害の時流されて、その後鉄の欄干に修復されたそうです。
上の写真は皇居の二重橋のものです。樋口橋のたもとの説明板にはこの二重橋を模したと書かれています。3枚の写真を見比べてください。明らかに樋口橋のモデルは二重橋ではなく日本橋である事はお分かりになられるでしょう。東京では周りの環境に押しつぶされそうになっていますが、ここの樋口橋は大水害にも負けず周りの景観を引き立たせる役目をこれからも続けてくれることでしょう。
写真奥の家は、橋本(神田町内会長)さん宅です。前の田んぼに炭坑時代は炭坑のテニスコートがあったそうです。たぶん炭坑が石橋を架けたのだろうとのことでした。流れている川は川添川とのことです。この橋を利用しているもう1軒も橋本さんということでこの橋の名前を橋本橋ということにしようと二人で命名しました。上から読んでも下から読んでも、川も橋も同じ語呂合わせになりました。
この付近には炭坑時代の遺物がかなり残っています。上写真は神田炭坑の坑口です。橋からすぐ見えます。
この長く続く石垣は、石炭を運び出すトロッコ線路跡で、手前には線路の橋がかかっていたそうです。

はじめは石炭を積んだトロッコを馬が引いていたそうですが、後からは、軽便鉄道の蒸気機関車が15両程のトロッコを引っ張っていたそうです。場所は軽便鉄道の猪立山(いたちやま)駅、現在では清峰高校前駅と神田駅の中間あたりの佐々川の淵に石のアーチ橋の1条だけ輪石が残っています。この橋も当時はちゃんとした名前が付いていたのでしょうが、今では、トロッコ橋と呼ばれています。増水時には水に揉まれていますが、壊れないのは、アーチの石組の強さを証明しているようです。これも含めると佐々町には5基のアーチ石橋がある事になりました。