2010年3月29日月曜日
口石部落の議事録2(大正9年の続き)
第二 国民生活ノ改善
一、杯・献酬ヲ廃スルハ縷々申合セタルコトアルモ厳格ニ行ハレサル処アルガ如シ。儀式等ニテ必行ノ要アル場合ノ外ハ絶対ニ之ヲ廃止スルコト。
一、信用組合ニ加入スル様奨励スルコト。
一、農事実行組合ヲ各部落設置セシムルコト。
一、社交上ノ宴会ハ可成簡約ヲ旨トスルコト。
一、男女入厄ハ樽入ハ一切廃止スルコトトナシ、自祝ノ意ヲ表スルタメニ近親及昵懇ノ人ニ対シテ本人ヨリ案内ヲナス等ハ希望ニ任セ差差(注、意味不明)ナキコト。但シ是迄ノ如キ旧ハ絶対ニ廃止ナスコト。宴会後ノ追酒宴ト称シ間口ニ酒ヲ持チ出シ飲マシムルコトハ絶対ニ廃止スルコト。
一、親戚及昵懇ノ間柄ノ外ハ初幟、初雛ヲ贈ラヌコト。当区ニ於テハ親戚丈ニハ贈ルコト差支ナキモ他人ニ贈リタル者ハ壱人壱円宛科料トシテ区ニ集金ナスコト。
一、初幟、初雛ノ自祝ヲ表スル場合、案内ス者ハ親戚及隣二三家ハ差支ナシ、其外絶対ニ廃止ノコトトシ、若シ此ノ規約ヲ破リタル者ハ、区ニ於テ五十銭宛罰金ヲ徴収ス。
一、病気見舞ヲナス者ハ各人白米5升ヲ出シ代表者ヲ立テ現品ヲ以テ見舞ナス者トス。産後及赤坊悦ビモ同ジ。子供悦ビノ後、餅クバリモ廃止ス。
一、作上リ餅ハ一切廃ナス事。
一、両彼岸ノ餅ハ親戚丈ニ送ルコトヽシ他人ニハ絶対送ラヌコト。
一、毎年四月十日、九月十日ニハ午後三時迄ニハ必ズ金比羅神社ヘ参拝ナス事。時間ヲ励行ナサヽル者ニハ一人前二合宛ノ酒ヲ配当ナサズ。
大正九年八月十七日定
一、区用酒ハ毎年四月、九月各十日、九月彼岸ニ分配ナス者トス(但壱戸二合宛)
一、村祈集会ヲ廃シ区役員ノミ打寄リ村祈ノミナス者トス。
以上が大正九年八月十七日の日付で始まる「区総会での決定事項」というものです。半紙9ページにわたって筆でしたためられています。はたして区(口石部落)で自主的にこのようなことを決めたのでしょうか。出だしにある「民力涵養」とか「国民性の陶冶(とうや)」等の言葉が全員に理解できたでしょうか。
「戊申詔書を奉読」とあります。全く分からなかったので、ネットで調べたらありました。本文は省略して、解説だけを書き写します。
戊申(ぼしん)詔書
1908(明治41)年10月13日
1908年、その年の干支である戊申に名付けられた詔書で、日露戦争後において、にわかに台頭してきた自由主義・個人主義、さらには社会主義の思想的潮流に危機感を抱いた桂太郎内閣が天皇制に立脚する国民道徳を強化する思想対策の一環として天皇の名において制定したもので、華美を戒め、上下一致、勤倹力行して国富増強にあたることが強調された。
それにしても詔書が出されてから12年後のことです。当時は政府が出したものでも、地方まですぐには回ってこなかったのではないでしょうか。長崎県に降りてきて、北松浦郡に下されて、佐々村に来て、村役場が各部落に手書き(すべての文書が)の文書を配り、住民に周知徹底するようにすればこれくらいの時間がかかったかもしれませんね。
村役場から来た文書にはところどころ空白箇所があって……たとえば罰金の金額とか科料の米の量など……そこを住民に決めさせたのではないでしょうか。最後の2項目(配給の酒と部落集会)だけは自主的な話し合いで決められたのではないでしょうか。
その後関東大震災の直後の1923(大正12)年11月10日には
「国民精神作興(さっこう)ニ関スル詔書」
というのが出されているので、当時の政府はお触れを天皇の名のもとに出せば実に都合良く、金も使わずに民意を掌握できたことがうかがわれます。
こうやって、次第に戦争へと突き進んでいったのでしょうね。
2010年3月22日月曜日
口石部落の議事録1(大正9年)
大正九年八月十七日
區總會ニ於テ決定事項
民力涵養實行細目必行事項
第一國民性ノ陶冶
一、部落ノ講演及ビ各種會同(合)ノ時、村長、神職、僧侶、校長等ニ於テハ戊申詔書ヲ奉讀シ、且ツ、勅語中該會合ニ適合セル事項ヲ講演スルモノトス。
一、國旗ノ尊重ノ念ヲ強クスルタメ、國旗掲揚日ハ毎戸怠ラズ掲揚セシムルコトヲ區長ヨリ毎期注意スル事。小学校ニ於テハ其前各級ノ児童ニ注意ナスコト。本年九月二十三日秋気皇祭際(秋季皇霊祭:現在の秋分の日)ヨリ村内残ラズ掲揚ヲ實行セシメルコト若シ國旗ナキ家ハ右期日迄ニ作製セシムル事。
一、神社佛閣ノ前ヲ通ル時ハ礼ヲ行フコト。
一、神社(郷社・村社)ニ於テハ一年一回ハ必ズ講演ヲナスコト。
一、親ノ命日ニハ墓参ヲナスコト。寺院ニ於テハ檀家ノ年忌ヲ調査シ之ヲ張示シテ周知セシムルコト。
一、徴兵入退営奉告祭ハ従来ノ通リ行フコト。
一、説教ノ時ハ寺院ヨリ通知アルニモ拘ラズ参詣人少ナキハ遺憾ナリトス可成家族中ヨリ一名ヅツナリ共日々参詣スルコトニ相成タシ。
一、村會及区長集會ニハ率先シテ時間ヲ後シヌコト。但シ出席簿ヲ製リ参着時刻ヲ記入スモノトス。各區ニ於テモ集會出席簿ヲ製リ出席及遅刻、欠席ヲ明ニシ時間嚴守ノ實ヲ挙ゲシムル様方法ヲ設クルコト。
區ノ細目
区ニ於テ出席簿ヲ製作シ協議員ハ其ノ責ニ任ジ、其ノ講々ニ於テ觸示ノ時間迄ニ其勤怠ヲ調ベ勤怠表ニ記入シ置ク事。
区長ハ觸出時間三十分前ニ公會堂ノ太鼓ヲ打ツコト。遅刻欠席者ノ罪目、觸出時間ヨリ一分間ニテモ遅刻ナシタル者ハ米五合、半日一升、終日二升。時計ハ公會堂ノ時計トス。不足米区割ノ際徴収ス。
其他一般ノ宴會其他ニ於テ懸値ヲ云ハズ、遅刻ナキ様申合セ應用ナス事。
一、集會及宴會ノ時、履物、持物ヲ取違ヘサル様注意スルコト。若シ各集會ニ於テ、履物、持物ヲ取違タル者ハ其理由調ベ一金五十銭ノ科料ニ処ス之モ区ニ於テ徴収ノコト。
宴會ノ際ハ施主ハ、下駄札ヲ作リ、案内者ノ氏名ヲ記シ門口ニ下ゲ置キ、来客ノ下駄及草履に7附スル準備ヲナスコト。
宴會中歸ル者ヲ止メヌコト。若シ、履物ヲ取ラレタル者ハ(素足)ニ歸リ、翌日調置コト。
一、道路ハ左側ヲ通行シ人ニ出會タル時ハ、左ニ避ルコト。軍隊ニ逢タル時ハ右。
一、道路川講ニ石瓦ヲ出スコト。(これは意味不明)
一、旅人ニ道ヲ問レタ時ハ親切ニ教エルコト。
一、集會ノ席ハ特別ノ指定ノ席ナキ限リハ前席ヨリ順ニツメテ着席スルコト。
一、牛馬ヲ道路ニ繋ガヌ事。若シ、牛馬ヲ道路ニ繋キタル者ハ米一升科料ニ処ス。耕地ノ附近ニ牛馬ヲ繋グ者ハ田畑ニ害シサル様ニ綱ヲ控エルコト。
(まだまだ続きますが、今回はこのくらいにします。それにしてもこまごまとしたことが書き記され、米や現金での罰則が決められているのは驚きです。本当に1分遅れても取られたのでしょうか。旧体の漢字やカタカナはほとほと疲れました。)
2010年3月15日月曜日
平和之塔(3)
2010年3月8日月曜日
平和之塔(2)
昭和27年に書かれた口石町内会の議事録から、「平和之塔」建設に関することを紹介します。
この年の議事録は筆跡を見たら、3人の別々の人によって書かれています。いずれも墨痕鮮やかで伸びやかな筆さばきです。
昭和27年3月21日惣會(総会のことでしょう)
1.昭和26年度決算報告一同承認
2.27年度予算前年度同(前年度と同じ金額で承認された意)
3.役員改選 嘱託(現町内会長)松尾泰作氏(松尾晴雄さんの父)
代理会計(現副会長兼会計)大浦正雄氏(大浦隆二さんの父)
4.嘱託以下役員給壱万円とする。
(ここまでは決算と予算の承認、新年度の役員決めと例年通りの総会です)
(ここから筆跡が変わります。総会後の記録です)
班長 1班 志方栄一(敬一郎さんの父) 2班 藤永新(京一さんの父) 3班 末永稲吉(重人さんの祖父) 4班 吉富尚任(喜志夫さんの父) 5班 藤永善七(繁さんの祖父) 6班 末永四郎(末永光夫さん義父) 7班 荒木泉 8班 荒木精一(キヌさんの義父)
昭和27年4月28日講和記念調印式終了ス。(実際は講和条約の発効の日) 是を記念する為、金比羅神社へ平和之塔建立及び桜、躑躅(ツツジ)、桃等の移植を発起す。其の費用を有志の寄附に依る事に協議す。平和之塔は各戸二日間の労力奉仕、舞踊場(現在の舞台の反対側にあった舞台のことか)を併せて建設、式場(舞台用地のことか)は横田種雄(隆亮さんの父)の寄贈に依る。
平和之塔落成式を十月十日金比羅祭日執行す。雨天の為口石小学校を拝借使用し、平和の塔建立除幕式並びに戦病死遺家族を招待し、記念慰安会を催す。
(ここで筆者がまた変わり、具体的なことが書き記されています)
1.部落寄付総額 54900円
2.記念碑建立費 17205円
3.遺家族招待費 14455円
4.除幕式費 10080円
5.苗木費 11000円
6.雑費 2030円
7.差引不足金 580円
右除幕式と同時に消防団半鐘の入魂式を行なふ
1.平和の塔に係はる石工は佐世保市岳野免 森田保氏起用する
2.平和の塔の筆者は友田一二先生
3.建立に対する延人員500名余り
当事者は十数日の労力奉仕をし、同時に横田安之助(憲治さんの祖父)、大浦信一(国昭さんの祖父)両氏の多大な御協力と御指導をを特に記録する。
(以上、3人の人が、3度にわたって、それぞれの立場で記録されたものと思われます)
この項の役員の中で、現在健在なのは当時20代で7班班長をされていた、荒木泉さんだけです。その後町内会長も2度に渡って務められ、町内のことはよく御存じなので、詳しいお話を聞くことができました。以下書き加えます。
○ 記念碑の石が大きくてとても重かったので山の頂上に上げるのが大変苦労したそうで、階段のほうから、少しづつ、歯止めを掛けながら大勢で上げたそうです。
○ 平和之塔の裏側には戦没者の氏名が刻まれていますが、アイウエオ順と言ったけど当時はイロハ順が多数派だったそうです。軍の階級を入れる意見も出たけど入れないことになったようです。
○ 寄付金の会計報告は計算が合わないけどなぜかと聞いたけど、会計担当ではなかったので知らないとの返事でした。誤差の範囲の違いですからいいでしょう。
○ 戦没者の慰霊碑は全国いたるところに、佐々町内でもたくさんあります。しかし、「平和之塔」と名付けられたものは初めてでした。ほとんどものが、忠霊や殉国、英霊などと書かれています。口石でもこの8年後昭和35年に正福寺境内に建てられた同じようのものでも「殉国英霊之塔」となっています。そして軍隊の階級が刻まれています。終戦後の純粋な気持ちからだんだんと変化してきたような感じがします。
2010年3月1日月曜日
平和之塔(1)
この記念碑に関しては、町内会に残されている「議事録」に詳しく書き残されています。当時の様子がよくわかりますからこれをもとに書き進めていきます。
記念碑には、昭和27年4月28日と書かれています。この日は講和条約・・・いわゆる「サンフランシスコ条約」の発効日にあたる日です。前年の9月8日サンフランスシスコで、第2次世界大戦における連合国と日本の間の平和条約が署名されました。下の写真は日本の主席全権の吉田茂が署名しているところです。
その後、国会承認と内閣の批准を経て翌年の1952年(昭和27)年4月28日に効力が発生した日です。当時小学校の5年生だった私は、担任の先生か校長先生だったかは記憶が定かではないけど、これで日本も本当の独立国になるのだとの話を聞いたことを思い出します。
この日を記念して 口石の町内の人たちは、町内から太平洋戦争に出征して戦死された人たちを悼んで記念碑を「平和之塔」と名付けて建てられました。戦後こんなに早い時期に建てられたのは珍しいのではないでしょうか。