2010年3月8日月曜日

平和之塔(2)

 この議事録(下の写真は表紙)は大正9年に書き始められて、現在まで途中1年のブランクもなく書き続けられています。なるべく原文に忠実に書き進めていきますが、明らかなミスや、送り仮名など最小限の修正は加えています。(  )内には解説を入れています。

 
 昭和27年に書かれた口石町内会の議事録から、「平和之塔」建設に関することを紹介します。


 この年の議事録は筆跡を見たら、3人の別々の人によって書かれています。いずれも墨痕鮮やかで伸びやかな筆さばきです。

 昭和27年3月21日惣會(総会のことでしょう)

1.昭和26年度決算報告一同承認

2.27年度予算前年度同(前年度と同じ金額で承認された意)

3.役員改選 嘱託(現町内会長)松尾泰作氏(松尾晴雄さんの父)

   代理会計(現副会長兼会計)大浦正雄氏(大浦隆二さんの父)

4.嘱託以下役員給壱万円とする。

(ここまでは決算と予算の承認、新年度の役員決めと例年通りの総会です)


(ここから筆跡が変わります。総会後の記録です)

班長 1班 志方栄一(敬一郎さんの父) 2班 藤永新(京一さんの父) 3班 末永稲吉(重人さんの祖父) 4班 吉富尚任(喜志夫さんの父) 5班 藤永善七(繁さんの祖父) 6班 末永四郎(末永光夫さん義父) 7班 荒木泉 8班 荒木精一(キヌさんの義父)

 昭和27年4月28日講和記念調印式終了ス。(実際は講和条約の発効の日) 是を記念する為、金比羅神社へ平和之塔建立及び桜、躑躅(ツツジ)、桃等の移植を発起す。其の費用を有志の寄附に依る事に協議す。平和之塔は各戸二日間の労力奉仕、舞踊場(現在の舞台の反対側にあった舞台のことか)を併せて建設、式場(舞台用地のことか)は横田種雄(隆亮さんの父)の寄贈に依る。

 平和之塔落成式を十月十日金比羅祭日執行す。雨天の為口石小学校を拝借使用し、平和の塔建立除幕式並びに戦病死遺家族を招待し、記念慰安会を催す。

(ここで筆者がまた変わり、具体的なことが書き記されています)

1.部落寄付総額 54900円

2.記念碑建立費 17205円

3.遺家族招待費 14455円

4.除幕式費    10080円

5.苗木費      11000円     

6.雑費        2030円

7.差引不足金     580円

 右除幕式と同時に消防団半鐘の入魂式を行なふ

1.平和の塔に係はる石工は佐世保市岳野免 森田保氏起用する

2.平和の塔の筆者は友田一二先生

3.建立に対する延人員500名余り

当事者は十数日の労力奉仕をし、同時に横田安之助(憲治さんの祖父)、大浦信一(国昭さんの祖父)両氏の多大な御協力と御指導をを特に記録する。

(以上、3人の人が、3度にわたって、それぞれの立場で記録されたものと思われます)

この項の役員の中で、現在健在なのは当時20代で7班班長をされていた、荒木泉さんだけです。その後町内会長も2度に渡って務められ、町内のことはよく御存じなので、詳しいお話を聞くことができました。以下書き加えます。

○ 記念碑の石が大きくてとても重かったので山の頂上に上げるのが大変苦労したそうで、階段のほうから、少しづつ、歯止めを掛けながら大勢で上げたそうです。

○ 平和之塔の裏側には戦没者の氏名が刻まれていますが、アイウエオ順と言ったけど当時はイロハ順が多数派だったそうです。軍の階級を入れる意見も出たけど入れないことになったようです。

○ 寄付金の会計報告は計算が合わないけどなぜかと聞いたけど、会計担当ではなかったので知らないとの返事でした。誤差の範囲の違いですからいいでしょう。

○ 戦没者の慰霊碑は全国いたるところに、佐々町内でもたくさんあります。しかし、「平和之塔」と名付けられたものは初めてでした。ほとんどものが、忠霊や殉国、英霊などと書かれています。口石でもこの8年後昭和35年に正福寺境内に建てられた同じようのものでも「殉国英霊之塔」となっています。そして軍隊の階級が刻まれています。終戦後の純粋な気持ちからだんだんと変化してきたような感じがします。

      

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