2011年3月28日月曜日

昭和32年度議事録②(森の木道路延長決定)

  昭和32年3月9日 部落総会    決議事項      (記録係 末永四郎)
1.役員改選の結果左の通り
   
部落長   大浦正雄
   
副兼会計  森田朝一

班長名 1 志方栄一  2 森田貞夫  3 森田吉治  4 池田義彦  5 宮島広一  6 末永四郎  7 荒木 泉   8 横田種雄  9 近藤先生

1.部落所有財産の件、相続税及び固定資産税等により公民館を町名義になる場合は部落役員に一任する(山本吾一)

1.決算報告 異議なく承認

1.役員給与増額の件、上記の件に付き部落会現行部落費50円を10円上げて60円とする
   
役員増額左の通り
 
会長 25000
 副 7000  班長 1500
1.半坂道路落成式 御払い程度簡素にする 

1.森の木道路延長の件 ★★
   
労力奉仕2日~3日(部落の事業とする)
1.財産組合所有産を部落提供(報告) 1.塵捨て場所の件    県道修理の時に集めて墓の下の旧防空壕穴に捨てる事、但しガラス、焼物に限る
1.消防ポンプ購入の件 半額又は1/3部落負担の事、購入する事に決定
1.貯水池清掃の件    各隣保班長の指示により適当に実施する
1.杉苗300本追加増植(但しS.34年度)越木岩

1.役員改選の件 全員留任 但し33年度1ケ年とする

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★ 4月になってから落成式をしています。33年度の記録にありますから、来週述べます。

★★ 半坂道や森の木橋は現在も良く言われますが、森の木道とは聞いたことがありませんでした。当時7班の班長をしておられた荒木泉さんに尋ねたら、事情がよくわかりました。
 上の写真は森の木道路を荒木さんに説明していただいた時のものです。ここは半坂道から分かれて森の木田原の中を通っている道です。現在は町道となっていますが、本来は農作業用の道路だったのでしょうが、朝夕には散歩やジョギングをする人を良く見かけます。 森の木道路の延長とは昭和32年に、半坂道から分かれて少しだけできていたそうですが、写真の当たり約200メートルばかりを部落民総出で労力奉仕をして作り上げたものだそうです。当時のものはこんなに立派なものではなく、もちろん舗装もしていません。 写真の道路は昭和51-52年にかけて森の木圃場(20ヘクタール)構造改善事業が行われたときに整備されたものです。

2011年3月21日月曜日

昭和32年度の議事録①(諫早大水害)

  昭和32年4月8日  金刀比羅神社の舞台作り替えを公民館厚生部のレクレーションとして口石小、婦人部及び中年、元老方々らの協力を得て午後4時に完了す。引き続き隣保班長会を自宅にて行い、顔合わせをなし協力をお願いする。他今後の運営等に付き協議をしてもらう。   昭和32年7月14日 臨時総会     協議事項 1.公民分館長選挙、山本藤蔵氏に決定す 2.電灯増設に関して資金調達の方、各戸50円以上寄付してもらう事に決定。即日実行す。24日電灯取り付け完了 3.財産組合解散す。すべての土地、建物等部落民に解放する 4.第6班長、永安三七氏療養、家庭の都合上辞表、末永四郎氏就任す (参考)   7月25日突然、北部九州に大豪雨襲来、諫早、大村等は家屋の流失3000戸、死者2000、行方不明2000以上、汽車、バス、電信電話不通となり新聞も1日見ることが出来ず。我が佐々町も相当の被害あり。口石部落は幸い人畜に被害なくしかし、田・畑は相当被害を被る。50年来の大豪雨、雷も又強く落雷各所にあり。消防団の人々は連日連日警戒に作業に苦労す   昭和32年9月19日午前8時より     部落の臨時集会 1.財産組合の部落へ解放報告、完了 2.道路の補修等協議一決 3.9月20日越木岩の杉の下払、道路の補修を実施。見返橋の落成式に関連して今年は早めに道路の補修を行う 4.野菊寮及び藤永新氏前2ケ所に土管敷、排水口の完備等、今後の水害に備えて部落総出で実施完了。(21日は見返橋の落成式あり) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ★ 「参考」 として昭和32年7月25日の諫早大水害の事が記入されています。この記述では、死者・行方不明者の合計が4000人以上となりますが、実際には600人を少し下回っているのが統計数字で記録されています。それにしても大変な大水害をもたらして佐々町でもかなりの被害があったようです。  この時、私は高校1年でしたが、小学校の親友が諫早の農業研修場に行っていたのがいて、その時の悲惨な状況を後になって具体的の聞いたことがありました。当時の新聞写真を下に示します。

2011年3月14日月曜日

昭和31年度の議事録②(森の木道路延長請願)

 昭和32年1月27日 初総会

    決議録

1.班長制設置の件

   各班で選任し3月25日頃までに部落会長迄に御届の事

1.森の木道路延長の件
   町道として町議会に請願する事

1.公園植樹(補植)
   役員に一切を委任する事

1.転入者に関する件
   転入者は家主より部落に申請し同時に加入金100円を部落会長へ支給する事 其の他転出入者、会長証明手続手数料金町内部落会長の申し合わせに依り金20円と定む

1.部落費増額の件
   現行月当40円を10円増額し50円と定む

右全議案原案可決
   昭和32年1月27日
         部落会長   山本藤蔵


 昭和32年1月27日役員改選

         部落会長   大浦正雄

         副会長    森田朝一


 昭和32年3月

  森の木道路延長請願の件

昭和32年3月13日町議会に請願書提出し、同年3月19日午後1時より現地調査を施行。町議産業経済委員長林久米太郎氏、谷口戸一、福田種三、浜田、前川トシさん、事務局より福田章氏等出張し、地元より山本、大浦正雄、山永朝一、山本吾一其の他土地関係者池田義彦、松永、寺田、末永秀夫等左の通り委員会へ御願した

1.土地代金其の他資材セメント、バラス、砂等を町当局へ御願し橋梁、人夫は部落負担とする

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 下の写真の道路は森の木道路ではなく、「半坂道」と言われています。殿様道と言う人もいます。
 森の木道路の延長工事は、この年は請願をしただけで1年後に完成しています。再来週に森の木道路延長工事完成について述べます。

 写真の橋は「森の木橋」です。橋の少し先から右に見えている道が森の木道路です。その途中からの延長を町当局に請願したということです。

 奥に見える堤防は大山口の堤です。平戸街道ウォーキングでは最も登り坂がきつくて難所と言われています。それほどの大きな山ではありませんが、その山の入り口ということで大山口と言う地名になったのでしょう。口石、佐々から佐世保方面に出掛ける場合には、明治から大正にかけての頃、現在の国道が整備されるまでは幹線道路だったようです。旧制中学や女学校にこの道を通り山越えをしていたとの話もききました。



2011年3月7日月曜日

昭和31年の議事録①(臨時会・役員会など詳しく記載)

 昭和31年4月21日

   臨時総会 決議事項

1.部落初総会変更の件
   部落初集会を1月下旬としなる可、日曜日を利用開会する 

1.初幟、初ヒナ、其の他祝い事の改善を計る ★★
   右の御祝い品に対しては親子兄弟、昵懇者に限り実行し其の他は厳禁する


 昭和31年4月1日 半坂道路工事、町失対事業者人夫で着工す。同日地鎮祭を施工す

      神官    友田義衛
      設計技師 浜野
      部落会長 山本藤蔵
      副、会計  大浦正雄
      委員    森田博介
             山本五一 
             寺田浦一
             志方健一
             末永四郎
             大浦恵雄


 昭和31年9月14日
    評議員会

1.金比羅神社公園補植の件 ★★★
    桜・つつじ補植する事
2.手入れ青年会へ一任

3.管理人  大浦恵雄 松野一郎

4.道路補修の件
    本月末頃、末永秀雄氏より下公民館付近迄主として実行する

5.お宮日祭りの件
    しめ縄張り 10月7日 お世話人及び近隣の人にて


 9月16日午後8時より公民館に於、評議員会

12号台風被害による
消防団警鐘台新設に関する件 ★★★★

 右の件委員会としては新設せる事に決定し、方法としては寄附金又は借金とす。総会の結果に依るものとす

 9月17日晩総会招集し左の如く決定する

1.予算13万円
1.鉄柵11メートル
1.金策方法 前の貯金31800円、残り10万円の内5万円を借入金とし、残金5万円を寄附金にて充当せる事に決議す

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★ 町内会の総会は戦前は初集会として、1月7日にずっと行われていました。その後4-3月の年度制になり3月20日に総会を行うようになりました。この年1月下旬の日曜日に行うように取りきめられました。現在は、2月末の日曜日に行うと町内会の規約に定められています。この頃から日曜日に行事を行うようになったようです。金比羅さんのお祭りも4月と9月の10日に近い日曜日と決まっています。

★★ 初幟、初雛などお祝い事が派手にならないようにとの話が出てきました。大正9年のこの議事録の書き始めと同じようなものです。この頃は新生活運動とかいう動きもあり、公民館結婚式等も行われたりしたこともありましたが次第に廃れていきました。

★★★ この頃も含めて、金比羅公園には桜とつつじなどを植えられましたが、その後の管理はあまりされなくて、現在では良い花が咲くとは言えないようです。春になればつつじは咲きますが、桜は年々悪くなってきました。


★★★★ 消防団の警鐘台は昔、火の見櫓とも言われていましたが、今は上から見る人が登っているわけでもなく、訓練に使ったホースを乾かすためにぶら下げるために時たま使われているぐらいです。もっともこの写真は現在のもので、この議事録の時に整備されたものは場所も違います。