2011年10月31日月曜日

佐々の石橋(1)江里峠橋

最近、石のアーチ橋が何かと目に付くようになってきました。近くでは、世知原、吉井のものはよく知っていたし、熊本では「通潤橋」に代表される立派なものもあります。旧佐世保市内にも3つだけあると佐世保史跡巡りの本に紹介されています。佐々町にも立派なものが3つある事が分かりました。そのうちの2つはしょっちゅう通っていたのに気付かずにいました。今までは口石に関する事ばかり書いていましたが、少し範囲を広げて佐々町の事も書いてみます。

・ 江里峠橋(えりとおげばし)
  明治20~21年に、旧県道が整備された事を「口石の旧県道」の所で述べました。そこでは、口石町内だけしか書きませんでしたが、その時に江里峠では立派なアーチ式の石橋が架けられていました。
 地元の長老、三好芳男さん(89)の話では付近の田んぼは江里部落の鎌倉神社のものだったそうで、この橋を昔は「宮田橋」と呼んでいたそうです。  
 江里峠の頂上から少し下ったカーブの所に上の写真の立て看板が立てられました。佐々町の指定文化財となっています。この付近では昔の平戸街道(平戸往還ともいう)を利用して県道は作られました。看板の写真では文字が読みづらいと思いますので、抜粋します。工事請負人は井手儀三郎(西彼杵郡浦上山里村)、石工は樋渡芳蔵(佐賀県有田村)。この橋は北松浦半島で現存するものでは最も古いといわれています。  上流側から、アーチ橋の石垣は全く痛む事もなくしっかりしています。
 下流側からの写真です。交通量が増えたり、カーブがあるため道幅を広げていますが、その際、土管を使って土盛りをしている様子が分かります。  なお、この橋の建設に関しては、長崎県の技官山口宗助という人が亡くなられて(病死)その慰霊塔とも言えるもの(上写真)がこの橋のすぐそばに建てられています。北松浦郡長従七位 朝長東九郎 選文並書
の漢文での長い文章が刻まれていて、今もはっきり読み取れます。

 戦時中、肉弾三勇士で有名になったその一人、北川伍長の生家のすぐ近くです。






2011年10月24日月曜日

口石の橋(10)高速道路の橋

 この9月に、予定より半年遅れで、佐々まで高速道路が延びてきました。みんな高速道路と呼び最高速度70キロ/hですから、西九州自動車道路の一部のはずですが、正式名称は、一般国道497号線です。何といっても料金がかからず、すーと入って行けるところがいいですね。











 開通前のウォーキングも賑いました。当日は天気も良く少し暑かったので、ビールの飲み過ぎになりました。




・ 須崎橋(すざきばし)

  佐々ICから入ってすぐの橋がこの橋です。町道赤崎線の赤崎橋(メロディ橋とも言います)の付近に架けられています。佐々IC付近は長崎県では有数の稲作水田が広がっているところに作られました。江戸時代に平戸松浦藩の干拓によって作られたところです。今回の道路建設でずいぶん田んぼが埋め立てられて、大雨の時、冠水するのではないかと心配され、大型のポンプで佐々川に放水する設備も作られました。
 この橋の橋桁は鋼鉄製です。他の橋はほとんどがコンクリート製であるのになぜでしょうか。




・木場川橋 (こばがわばし)
  富田橋(通称とんだばし)の所に架けられました。この付近は護岸工事も行われて、一帯の様子がずいぶん変わりました。


・口石大橋 (くちいしおおはし)
  妙見橋(通称ぜんもんばし)の所から、森の木田原の上を縦断していて、全長が600メートルにも及ぶ陸橋です。我が家からも近いところで、コンクリートを打つ作業の時は交通規制もあり、回覧板を回したりもしました。長い期間工事が続き、途中で建設会社の倒産でしばらくは工事がストップしたこともありました。左官さんとも知り合いになり話を聞いていたら、島原半島の有家の人たちで、仕事が終わってから車を乗り合わせて帰り翌日は朝間に合うように来るというのですから大変な通勤時間に驚きました。この橋の建設が高速道路の建設の実感を感じていました。 





・口石跨道橋(くちいしこどうきょう)
  佐々ICと相浦中里ICのちょうど中間地点の山頂に架けられています。高速道路を走っていると山の中でよく見かけるものですが、先日現地まで行ってみて渡りましたが、立派なものです。イノシシも渡りやすいでしょう。
  この付近には、広い空き地があり「国土交通省」の名が入った境界の杭がたくさん打たれています。サービスエリアの建設予定地だそうです。この西九州自動車道路は佐々から松浦、伊万里、唐津を通って福岡まで延びる計画はずっと前に発表されました。しかし、今の財政状況では、佐々が永久に終点になりそうな感じがします。サービスエリアも今の状況では出来てもお客は入らないでしょう。
線路を跨ぐのが跨線橋というのは知っていましたが、道路を跨ぐのを跨道橋というのは初めて知りました。実際にそこまで行ったのは最初で、立派な舗装道路です、普通車がすれ違える広さです。





2011年10月17日月曜日

口石の橋(9)平田橋、半坂橋

・平田橋(ひらたばし)
  順手川の最上流、平田溜池の水の落とし口の所に昭和61年に架けられました。当時定時制高校勤務をしていたので、早朝から大型トラック(トレーラーだったかも知れない)何台もやってきて工事を始めたので、物珍しくずっと見ていて工事関係者とも話をしたりしました。   




 写真からも分かりますが、川幅は狭いのですが、川を斜めに横断するために、かなり長いコンクリートの橋桁が6本、6台のトラックで運ばれてきました。その他に大型のクレーン車もきました。作業が始まって間もなく、橋桁を下ろそうとしたクレーン車がゆっくりと傾き始めそのまま横倒しになりました。たしかその日は、雨上がりで足場はあまり良い状態ではありませんでした。パイプを組み立てた大型のクレーン車が倒れたのですから、どうなるのだろうと思っていたら、かなり時間がたってから、小型のクレーン車がやってきて助け起こし作業は、その後順調に進みました。




 その時、久留米ナンバーのトラックの運転手たちは、かなり待たされたので、付近の順手川で「サワガニ」捕りを始めました。口石の者は誰も捕らないのでかなりの量を捕まえていました。これは大変旨いのだと運転手たちは話してくれました。




 その後、道路も整備され町道「淨香谷(ジョーゴダニ)線」は千本団地建設など利用が広がりました。





・半坂橋(はんざかばし)
  橋であるのは間違いないでしょうが、橋と言うよりは、溝蓋と言った方がよさそうですが、町の台帳には、半坂橋と記入されています。川の名前は記入されてなく不明です。この川の水は大山口の堤に注いでいます。最初に通ったころからすれば、かなり広くなっています。3度工事された経過が良く分かります。




 橋を利用する民家は最初の頃は、2戸だけでしたが、現在では6戸と1施設、この施設はグループホームです。車社会となり道路の幅も広くなりました。


2011年10月10日月曜日

口石の橋(8)順手3号橋、4号橋

・順手3号橋

  町道正福寺線に架かっている橋です。この町道が出来る前には、歩いて通る事が出来る細い道がありました。しかし、ここの橋は古い電柱を1本置いてあるだけだったので、小学生は面白がって歩いていましたが、大人はめったに渡っていないようでした。この道路が出来て橋がかかったら車も通れるようになりましたが、途中の道幅が狭くて、バックしなければ離合できないところもあります。




・順手4号橋



 4号橋は3号橋から10メートルほどしか離れていませんが、こちらは、佐々町道淨香谷線に架かっています。早く出来たのが、正福寺線で淨香谷線が後から出来たのにこの二つの町道が交差するここでは、正福寺線の方が一旦停止しなければなりません。私には不自由になりました。






2011年10月3日月曜日

口石の橋(7)順手橋、正福寺橋、公会堂の橋

・順手橋(じゅんでばし)
  この橋は、明治20年に旧県道が整備されたとき、最初に架けられたそうです。当時は石橋だったのでしょうか。


佐々町郷土誌(昭和57年版)に順手橋の石柱の写真が草むらに立っています。















 農業用水路として役目が大きいこの川にはいたるところに、このような取水のための堰が作られています。







・正福寺橋



  浄土真宗西本願寺派の正福寺の真正面に架かっている橋です。

 すぐ横に、佐々町消防団第5分団の消防詰め所があります。







・公会堂の橋

 公会堂と言う呼び名は公民館と変わり、今では集会所となりましたが、昔からの人は、公会堂とか公民館の所の橋といっています。ここにある堤の水の流れ口に架けられた橋といえばいいようです。