2012年2月27日月曜日

石橋(8)春明橋

8.春明橋(はるあけばし)佐世保市吉井町下橋川内(佐々川)

  架橋:大正11年 橋長:18.6m 橋幅:4.3m

 佐々川本流に架橋された石橋としては下流から2番目です。樋口橋と同じ大正11年に架橋されていますので、当時の吉井村の人にとっては大変なことだった事でしょう。地区が違うので、お互いに競争し合ったのかもしれません。こちらは炭坑に近いのでその関係もあったかもしれません。

 この橋の下は佐々川の淀みになっていて農業用水の取水もされています。ずいぶん前になるけど、吉井町が主催したイカダ下りのレースに出た時、ここが出発点でした。我々のはイカダというよりは舟に近い頑丈なものを作りました。出発直後はすいすいと走り他を追い越す事もありましたが、途中には水がなく担いで行くところが多く、疲れ果てて散々な結果に終わったものでした。

 このレースの時気付いたのですがすぐそばに、橋の竣工碑と馬頭観音の小さな祠があったのを覚えていました。今回写真を撮る段になって気付いたのですが、お粗末だった観音堂は立派に建て替えられ、瓦ぶきの屋根に基礎のコンクリートも真新しいものになっていました。この付近で「男はつらいよ」の映画でロケが行われたそうですが、現在の風景(上写真)を見たら山田洋次監督はロケを行う気持ちになったでしょうか。この橋のすぐ下流に新しい鉄の橋が出来て自動車はそちらしか通れなくなっています。アスファルトの舗装もきっちりされています。遠景にある古い石の鳥居は田園風景を残しているように見えます。それにしても、大正11年の橋の竣工記念碑は立派で、達筆な文字が彫られています。樋口橋には昭和56年に補修を行った時の記念碑しかありません。

 歩道としてしか使われなくなった春明橋ですが、そのたもとには、吉井と世知原の境界ということで、村祈祷の辻札が今も置かれています。

2012年2月20日月曜日

石橋(7)古野橋

7.古野橋(このばし)佐世保市吉井町福井(佐々川支流福井川)
 架橋:昭和12年 橋長:13.2m 橋幅:3.4m
 古野橋と書いて「このはし」というのを聞いて固有名詞の読みは分からないということをつくづく感じました。近所の人に聞こうにも誰一人通らない過疎地ですが、すぐ近くに吉井北小学校があるので尋ねてみました。ご丁寧にも校長と教頭先生の2人も応対していただきました。私が小学校を卒業した昭和29年3月は吉井小学校福井分校と言っていました。卒業直後の4月1日に独立校になり「福井小学校」となるのですが、5月には「吉井北小学校」と校名を変更しています。なぜ福井という地名をなくしたのかわかりません。その後、福井洞窟の発掘調査が行われ、1.3万年以上の昔、縄文時代以前の旧石器時代の遺物が見つかり、その名は全国に知れ渡りました。日本歴史の教科書では最初の1ページは福井洞窟から書き始められるようになりました。
 明治になって学制がしかれときには福井小学校とか福井尋常小学校の名前が使われています。小学校の2人の先生からは橋の名前に関する情報は何も得られませんでした。

 現在、石橋の古野橋は車は通れません。すぐ隣の上流側にコンクリート製の「新古野橋」が平成15年に架けられて自動車が通っています。 
 写真の右側が石橋の道路で歩道として使われています。左側がコンクリート製の「新古野橋」です。石橋を残す工夫が感じ取れます。近くで農作業している御婦人を見かけたので聞いたところ、この橋の所の地名は「古野(この)」ということだそうで納得しました。ほとんどの人はこの辺り一帯のことを福井と呼んでいるので、狭い地区の呼び名のようです。
 ついでに吉井北小学校のことをもう少し、私が小学校を卒業した直後独立した頃の児童数は452名、昭和35年が最大で686名、現在は107名とのことですから分校当時の1学年の児童数と同じでした。それも、炭坑の消長に合わせた児童数の変化ということでしょう。石のアーチ橋を架けるにはかなりの金銭的な負担がいるものですが、炭坑が始まる頃にこの付近の石橋が次々に架けられたということですが、炭坑がなくなっても石橋はしっかり残っています。

2012年2月13日月曜日

石橋(6)板樋橋

6.板樋橋(いたびばし)佐世保市吉井町福井(佐々川支流福井川)

架橋:昭和6年 橋長:18.3m 橋幅:5.3m

 写真のようにしっかりとした橋で自動車も普通に通れます。しかし、この橋を通ったのはごく最近になって、帰省した同級生が親戚宅を尋ねるというので、板樋集落を訪れたときでした。先はずいぶん狭い道となって通りづらく、まとまった集落はなく家もわずかしか見当たりませんでした。小学校6年の夏ごろ台風襲来のため、授業を打ち切って早めに、それぞれの部落単位で集団下校することになりました。そのとき板樋部落の子供が妙に元気良かったのが記憶にあります。もっともみんなが雨に濡れながらも楽しそうにしていましたが、誰一人として保護者が迎えにやってくることはありませんし、先生の引率などもありませんでした。仲良しの友達が出来ずに板樋には行く事がなかったのです。現在、板樋に行くときは別の橋を通る広い道路が出来ています。近くに老人施設が出来たためでしょう。昔に比べたらこの石橋を渡る人はめっきり少なくなったようです。 この橋のたもとに直谷(なおや)城主墓石塔群があります。すぐ近くの内裏山には平安末期から江戸時代初期まで460年ばかりも続いた「直谷城」の古跡があります。志佐氏の居城ですが3度の落城の歴史があるそうです。小学校の頃、崖の所を姫落としとの話を聞いた時、お姫さんを突き落としたところと思い込み恐ろしいところだと感じていました。そのとき壇ノ浦の源平合戦で負けて死んだはずの安徳天皇が秘かに助けられてこの城で暮らしたとの話を聞きました。内裏(だいり)という地名は他にはないとか山の下の松浦市の御厨(みくりや)という地名は天皇のための料理をした厨(くりや)であるとのことでしたが、信じられませんでした。今になって見れば、平安末期に作られた城という古さを強調するための話だったのかもしれませんね。



2012年2月6日月曜日

石橋(5)松原2号橋

5.松原2号橋(まつばらにごう)吉井町直谷(直谷川)
 架橋年:不詳 橋長:5.6m 橋幅:3.4m

 この橋は昭和28年の5月に直谷に引っ越した時、田の元のバス停を下りて真っ先に通った橋です。その後も何かにつけて良く通っていました。特に炭坑の映画館、住友潜竜炭坑の済美館(上等)、日窒江迎炭坑の江友館(オソマツ)ヘ行くときは足取りも軽かったと思います。その頃、石橋ということを言う人は誰もいませんでした。文化財という意識はなく、生活に追われていたのでしょう。しかし、潜竜炭坑の周りは活気あふれる街でした。露店の店は人だかりがしていて、当時パチンコ屋はまだなかったけど、ビンゴ屋のマイクを通して若いお姉さんの甲高い声が昼間から道路に響いていました。路上での賭けごともおおっぴらにされていました。後から聞いた話ですが、潜竜のタバコ屋さんは九州一の売り上げをして何度も専売公社総裁表彰を受けていたと他のタバコ屋さんがうらやんでいました。炭坑夫には宵越しの銭は持たないという意気があったのでしょう。
 この石橋も立派なもので、当時石炭を満載したトラックが頻繁に通っていたし、バイパスが出来たとはいえ今も大型車も通っています。
 写真はあまりよくありませんが、夏場なら川の中から撮れば良かったのですが。地域に埋もれてしまったような感じの橋です。しかし、何としてもこの「松原2号橋」という名前はいただけません。すぐ近くに松原1号橋があるので、2号橋と名付けたのでしょう。と旧吉井町役場の職員が台帳の図面を拡げて説明してくれました。以前、このところの道は県道で町は関係なく、昭和56年にバイパスが出来た時、町へ移管され名前を付ける必要が出来、その名前を付けたようだとのことです。
 この橋が架かっている川は佐々川の支流の福井川の支流の直谷川に架かっています。松原1号橋が架かっている川は佐々川支流の福井川の支流の直谷川のそのまた支流の松原川に架かっています。石橋研究家のすえながのぶを氏の推測では「輪石、壁石等の造りからすると明治22年の里道改修時、佐々川流域では最も古い架橋」ではなかろうかと説明されています。どうみても2号ではありません。松原川にも架かっていませんが松原地区ではあります。
 このコンクリートのU字溝をひっくり返して作ったような橋が「松原1号橋」です。ここは松原川です。
 佐々川流域の石のアーチ橋には、説明板とか、標柱が建てられていますが、松原2号橋は何の説明もない数少ないもののひとつです。目立たずに文化財登録がされていないのでしょう。しかしこの橋は、何百年か後、他の石橋が壊れても案外残っているかも知れません。その時文化財に指定されるでしょうが、名前はその時は変えてもらいたいものです。川の名前をとって「直谷橋」とすればよさそうですが、すぐ下流にその後作られたコンクリートの橋が直谷橋ですからそれもできません。後の時代の人に考えてもらいましょう。