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口石金比羅さん物語
日本の西の端、長崎県は佐々町口石にある田舎の・いなかのお話です
2012年2月20日月曜日
石橋(7)古野橋
7.
古野橋
(このばし)佐世保市吉井町福井(佐々川支流福井川)
架橋:昭和12年 橋長:13.2m 橋幅:3.4m
古野橋と書いて「このはし」というのを聞いて固有名詞の読みは分からないということをつくづく感じました。近所の人に聞こうにも誰一人通らない過疎地ですが、すぐ近くに吉井北小学校があるので尋ねてみました。ご丁寧にも校長と教頭先生の2人も応対していただきました。私が小学校を卒業した昭和29年3月は吉井小学校福井分校と言っていました。卒業直後の4月1日に独立校になり「福井小学校」となるのですが、5月には「吉井北小学校」と校名を変更しています。なぜ福井という地名をなくしたのかわかりません。その後、福井洞窟の発掘調査が行われ、1.3万年以上の昔、縄文時代以前の旧石器時代の遺物が見つかり、その名は全国に知れ渡りました。日本歴史の教科書では最初の1ページは福井洞窟から書き始められるようになりました。
明治になって学制がしかれときには福井小学校とか福井尋常小学校の名前が使われています。小学校の2人の先生からは橋の名前に関する情報は何も得られませんでした。
現在、石橋の古野橋は車は通れません。すぐ隣の上流側にコンクリート製の「新古野橋」が平成15年に架けられて自動車が通っています。
写真の右側が石橋の道路で歩道として使われています。左側がコンクリート製の「新古野橋」です。石橋を残す工夫が感じ取れます。近くで農作業している御婦人を見かけたので聞いたところ、この橋の所の地名は「古野(この)」ということだそうで納得しました。ほとんどの人はこの辺り一帯のことを福井と呼んでいるので、狭い地区の呼び名のようです。
ついでに吉井北小学校のことをもう少し、私が小学校を卒業した直後独立した頃の児童数は452名、昭和35年が最大で686名、現在は107名とのことですから分校当時の1学年の児童数と同じでした。それも、炭坑の消長に合わせた児童数の変化ということでしょう。石のアーチ橋を架けるにはかなりの金銭的な負担がいるものですが、炭坑が始まる頃にこの付近の石橋が次々に架けられたということですが、炭坑がなくなっても石橋はしっかり残っています。
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自己紹介
井上順一
1942年生まれ。満州引き揚げ。工業高校、高専勤務40年。定年退職後、半農(家庭菜園)半漁(船での魚釣り)の暮らし。パソコンやデジカメと遊びだしたところです。
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