2010年9月27日月曜日

金比羅境内心中事件

 尋常小学校6年を終え、4月からは高等科に行く杉作少年は春休みで自宅にひとりいました。昼を少し過ぎたころ、突然大音響とともに地響きが伝わってきたのに驚きすぐに家から飛び出しました。方角は良くわかり、金比羅さんの階段を駆け上がっていきました。頂上の広場で目にしたのは、異様な光景でした。少年は何をすることも出来ずに、ただぼうぜんと立ち尽くし、見つめているだけでした。

 (現在の金比羅境内広場、事件後桜は3本ほど切り倒されました)
 
 着物を着たうら若い女性が血まみれになって、腹の辺を手で押さえているのですが、その手から、はらわたがはみ出していました。少し離れたところで、顔見知りの青年が桜の木に自分の帯を掛けて首を吊って自殺をしようとしていました。着物の腹の辺は煙を出してくすぶっていました。現在もそうですが、金比羅さんの境内は岩肌が目に付いて桜の木などを植えてもなかなか成長が思わしくなく、小さいものでした。ですから首を吊っていても足は地に付いていました。さらに帯は首の後ろ側に掛っていました。ちょうどもたれかかっているような感じで目をつむっていました。周りには大人たちはまだ誰も登ってきていませんでした。大音響からすればかなり時間がたっていたので、喉の方に帯が掛かっていれば死んでいただろうなと子供心に思いました。そして、 女は必死にもがき苦しみながら、忠二がした忠二がしたと少年に言い聞かせるように何度もわめいていました。    

 しばらく立ちすくんでいたら、爆発音に驚いた大人たちが続々と登ってきました。年寄りの一人がその場を取り仕切り始めて、若いものに戸板を持ってこさせ、血まみれの女をその戸板に乗せて若い者が抱え急坂の階段を苦労しながら下りて行きました。その時には近くの開業医の先生も登ってきていて、その病院へ連れて行こうとしたのでしょう。少年も戸板から遅れないように付いて下って行きました。下ったら田んぼのあぜ道を通り、順手川にかかる小さな橋を渡り公会堂付近に来た時、女はがくんと首が折れて息絶えました。

(広場から下る急な階段は当時のままのものです)

 その間、少年は一言もしゃべる事はありませんでした。その時、何がどうだったのか少年にはなかなか理解できない事ばかりでした。

 その後、大人たちはこの話で持ちきりになり、聞き耳を立てていたので少年にも事情がだんだんと分かってきました。女は小浦の女郎屋「清川」の女郎お浜さんということ、男は何度か通い馴染みになっていたこと、少し早いけど、男が花見をしようと誘っていたこと、境内広場に穴を掘ってダイナマイトを埋め込み、その上に茣蓙を引いて酒と弁当を用意して、無理心中を図ったという事でした。男は今生の別れと嫌がる女を無理やり押さえつけ上に乗って目的を遂げ、ダイナマイトを爆発させた。その時女の帯は太鼓帯だったので、背中の方は損傷は少なく、即死ではなかったことも分かりました。

 この事件は昭和16年の3月ですから、この年の12月8日が大東亜戦争が始まった時です。当時を知る人の話では、ダイナマイトを使った自殺があちこちであったそうです。世の中の動きが戦争へと突き進んでいるときで、若者には閉塞感があったのではないでしょうか。


(御断り)実際の事件を目撃者の少年の視点で書きました。人名につきましては、すべて仮名としました。

2010年9月20日月曜日

昭和16年の議事録(臨時総会、警防団、力竹医院)

昭和16年1月11日(初集会

    協議事項

1.藤永新平氏次男十三郎氏分家村入の相談承認を受く
1.金比羅様の枯松のため其の代りとして楠を各隣保班にて一本宛二月末日迄に植える事に決定
1.触役増員並に増俸をとの意見有之も今迄の様に保留す
1.区有金壱万円を維持する為区費の徴達法の研究を望するも良き案もないため保留
1.警防団の出初式が七日に有るため期定日の七日を延期す
    役員改選
  評議員  松田幸四郎氏(退)
  評議員  大浦 信市氏(退)
 新任評議員 森田亀一氏 28点
  々      永石浅吉氏 25点
     次点  末永勇七氏 22点
     々   荒木精一氏 15点
右の通り一般の承認を受く
 区長並に区長代理改選の結果
   横田安之助  区長
   大浦信市  区長代理に当選したるも事由により承認なきため今迄通り区長並に区長代理も本年度(一年)と相談に相成るため区の円満のため区長並に代理も承認す


  7月13日 於 公会堂

    決議事項
1.議長 力竹増太郎氏★★
1.区長並に代理の辞任届を承認す
1.役員の総て再選を防けず
1.区長並に区長代理当選者は相当の理由あるとも総会に於て其の理由を認めざる限り異議申立(承認)をなすべからざる事
1.各給料を左記の通り改正す★★★
  1.区長給 300円(改正前60円+10円)
  2.代理給 100円(25円)
  3.配給係  60円
  4.評議員  20円(8円)
  6.触役給  10円(4円)
1.区長並に代理改選の結果左記の通り
  1.区長  永石浅吉 32票
    次点  森田亀一 10票
  2.代理  森田亀一 15票
    次点  横田安之助14票
  3.評議員 退職者 永石浅吉
          〃    森田亀一
         当選者  末永勇七
          〃    大浦正雄
1.各隣保班長は7月分より12月迄は各戸(寄留人を含む)金壱円也を徴収の事
1.隣保班長は一戸10銭宛を毎月給料日として徴収する事を得


    8月27日
 評議員隣保班長集会協議事項
1.区民の出不足一日に金2円と定む
1.女は其の八掛と定む
1.寄留人に対して道路受護之為村道県道修繕の時は出動を相談する事 但し出不足取らざる事
右決議す


    9月27日

1.区の差合は若し一人以上死去して葬式を一緒にする共差合を員数に対し出す事を評議員会に於て決議す★★★★


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★大正年間からずっと1月7日に初集会をするのが口石の習わしでした。この年は警防団の出初式が1月7日に行われたために、集会は1月11日に延期して行われました、この年は何か波乱含みの予感がします。
警防団は戦後は消防団となったので、口石の分団長は三代でおしまいです。初代の分団長の時昭和14年に作られたであろう団旗には「佐々村」とあります。佐々町となったのは昭和16年です。初代と3代は議事録に登場してきますが、2代は正福寺の住職をされた人です。
現在の消防分団詰所と消防自動車の倉庫(上写真)は当時の場所から移転新築されています。

★★ 1月の初集会で、選挙により選出された区長、区長代理は辞退したため、前年の人が再度区長・代理を行う事でおさまっていましたが、7月になって2人から辞任届が出たため、臨時総会が開かれました。
 その時の議長が力竹増太郎さん(下写真は自宅と医院)。大物を議長に据えて難局を打開しようとしたようです。力竹増太郎さんは隣部落小浦の生まれですが、今の熊本大学の医学部を卒業されて、明治42年に口石で開業されています。


 下写真は現在の力竹医院で、3代目の輝彦先生が診察をされています。左側が入院病棟になっています。5年前の冬、風邪をこじらせた私は、2泊3日の入院で完全に回復した事がありました。



★★★臨時総会は順調に進んだ模様で、役員の成り手がいない事や、当時はインフレもひどかったのではないでしょうか、大幅な役員報酬の値上げが決定されています。その中で「配給係」が新設されて、評議員の3倍の手当で、区長、代理に次ぐNO.3の座を占めています。酒の配給などもあり、大事な役回りだったようですが、誰がなったのかわからないのが残念です。

★★★★「差合」というのは念仏講の「差し合わせ」のことで、現在の香典と同じものです。昭和50年代に私が加入した時300円でした。あまり実情に合っていなかったので、これとは別に香典を出す習わしになっていました。現在念仏講自体は残っていますが、「差し合わせ」は集めることはありません。


2010年9月13日月曜日

昭和15年の議事録(区費値上げ2円に)

 昭和15年1月7日 初集会
     協議事項
 計算報告区民一同の承認を受く
 松植の日取り適当の時期を見て役人一任
 山焼後の日限は2月28日限り
 金比羅様及び彼岸の御酒は役人に一任
 区費は現在は1円50銭なるも本年より2円と決定
 区民の1ケ年の出不足3円
 寄留者の1ケ年分負担3円
 初集会の出不足 1円
 区の出不足 男1円50銭 女1円20銭
     役員改選
 区長   横田健雄氏22
 代理及会計 池田 新氏33
 評議員    森田源八氏25
  々      松田幸四郎氏留任
  々      志方重太郎氏22
  々      大浦信一氏30
 区長次点大浦信市氏、協議員次点大浦正雄氏、山口市三氏、森田喜市氏
右の通り一般の承認を得候也
区長の任期も一期にて再選無こと決定
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★この年評議員になられた大浦信一さん宅の井戸の写真を下に添付します。現在は使われていませんが、流し場には大きくて平たい石が並べられていて炊事、洗濯の他にも農作業など使い勝手が良かっただろうと思われます。すぐ横の母屋は改築されていて、当時の面影はありませんが、その横のシノヤ(農作業用の倉庫等)は瓦ぶきの建物が信一さんの当時のものがそのまま残っていますが、現在住んでおられる孫の国昭さんから写真を出すのを遠慮するように言われたので、井戸だけにしました。  






2010年9月6日月曜日

昭和14年の議事録(古堂の観音様)

  昭和14年1月7日 初集会
    協議事項
 区貸付金利子利下げ
 借金の1割以上元金払い込みたる者に対しては年8分利子
 利子のみ払い込み者に対しては9分の利子
 右は毎年12月20日取り立て定日に限る
 それより以後に払い込みの者は1割の利子
1.決算報告議案の件
1.越木岩松売却の件
1.古堂御観音様春の彼岸御講子施行の件
1.植松処分の件

 福田伊之助氏これまで寄留者にして有りたるも本年より区入りの相談あり、承認を得
    役員改選の件
  上中 松田幸四郎氏 新任  森田亀一氏 次点
  下   池田 新氏 新任  横田十三郎氏 次点
  役員給増俸改正の件
 区長年手当50円なり所10円増額して60円と定め外に交際費10円を給す
 区長代理兼会計年手当15円たりし所25円
 評議員給6円なりし所8円宛
 触れ役給1円50銭なりし所4円宛
右の通り承認を得候也
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★ 古堂の観音様の現在の写真です。



 金比羅さんにほどちかい小高い斜面に祠があります。この御堂は戦後最初に町長になられた藤永さんの一族でお祭りをされていると聞いています。一時周囲が荒れていた時もありますが、最近は草払いも定期的に行われよく整備されています。 お巡りさんの一行も立ち寄り信仰の対象となっています。
 お堂の裏側は大きな岩場になっています。戦時中には防空壕がここに掘られました。現在もそのままの状態で残っています。この壕はL字型に掘られていて全長20メートルほどですが、いわゆる防空壕と呼ばれるものは行き詰まりになっていますが、ここは通り抜けられるようになっているのが特徴的です。佐々町は佐世保市には近いところですが、終戦まで空襲を受けた事がなく悲惨な話は聞く事がありません。この防空壕も実際には使われなかったそうです。

 最近の子供たちは、自然の中で遊ぶことが少なくなりましたが、30年ほど前うちの子供が小学生のころは男の子供の格好の遊び場になっていました。近くの山道は両手で掴みながらでないと登れないような急こう配の坂道があり、「悪魔の坂道」と呼んでいました。測ってはいませんが、45度以上の坂ではないでしょうか。その上には、秋には栗の実が今も実っているはずです。





2010年8月30日月曜日

昭和13年の議事録(大正の金銭出納帳発見)

昭和13年1月7日
      協議事項
 区貸付金の利子は年1割2分とす
  但し各年取り立て定日12月20日当日出金者に限り年1割とす

 区長      森田喜市氏
 代理及会計 永石浅吉氏(善吾さんの祖父)★★
 評議員 上  藤永 新氏
     下中  末永惣太郎氏
       下  大浦新市氏
          松田力太郎氏
昭和13年7月8日
      村祈祷施行の境
 山口市造氏より家内の養母を市造氏一家同等に存も□区割右相談あり□□故承諾す

   昭和13年10月2日
伝染病死亡者は死亡後一週間以上経過せざれば葬式は出来ざる事に区の総会の決議に依りて之に定む★★★

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★ 口石区の「金銭出入帳 口石触」大正2年1月起 という半紙に墨書の記録が偶然なことから、私の手元に入りました。下の写真がその表紙です。外れかかっていますが、表紙には厚紙(和紙)を使っています。   内容は数字を漢字で筆で縦書きで書かれています。最上桁は万の位で、最下位の桁は「厘(りん)」です。1厘は10分の1銭ですが、大正時代のこの頃は最低の貨幣は5厘が使われていたようです。野球選手の打率をいう場合は今でもその下の位まで、何割何分何厘何毛と使われる事がありますね。

 この当時、昭和8年1月の記録では、区有金総額6492円59銭で内訳は貸付証書面4062円(約63%)で残りが銀行や信用組合への預金や現金です。
 年間の歳入金は753円42銭
  同  歳出金は454円82銭(区長手当他)
ですから、区の行事の為に支出するというよりは区民の為の金融機関=金貸しが主だったといえます。利息がいくらかはっきりしなかったけど、この年の議事録で年1割2分とすることがはっきりしました。もっとも、12月20日の定日に払い込めば利子を1割に負けるというのはなかなか良いアイデアですね。



★★ 下の写真は、この年区長代理兼会計に当選された永石浅吉さんの自宅(当時とあまり変わっていない)と前田です。青々と稲がしげるこの田んぼはその後、土地改良事業が行われて、まとめて広々となりました、口石では1枚の田んぼで一番広くて、6反(1800坪)あります。今年も豊作が期待されます。 



やはり大豊作でした



★★★ この年伝染病が流行ったのでしょうね。それにしても伝染病の死者の葬式は一週間以上出せないというのは、どんな意味があったのでしょうか。しかもその事を、町内の総会で決議をして決めたと言うのですからますますわからなくなります。厚生省や保健所はどうしていたのでしょうか、田舎では機能していなかったのでしょうか。



2010年8月23日月曜日

昭和12年の議事録(町内会費は米5升)

  昭和12年1月7日初寄協議事項
1.決算報告一同承認を受く
1.部落常会の件
1.1ケ年区 出夫の件(2円50銭)と定む
1.区割り変更の件(米取り立てをやめ)金1円50銭と定む
1.森の木里道改修 3月1日より
1.青年補助金10円(部落常会の件承認)
1.野坂 果樹園変換にて造林する事
1.評議改選 松田力太郎、上、大浦正雄★★
   右の通り承認候也

    12年4月14日
1.横田安之助氏村会議員当選に付き
      区長    志方重太郎氏
      区長代理 松田幸四郎氏
 区総会の結果承認を受けたり
1.前区長退職慰労金として
   15円也、礼金なす会計より
   10円  区長準備金より


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★ 現在の町内会費に相当する「区割り米:5升」だったものを、この年から現金1円50銭と変更になりました。実質的には10銭の値上げになります。当時の物価として米5升の金額はおよそ1円50銭という事でしょう。
下の写真は今年3月の公民館新築移転に伴う引っ越しで見つかった資料の中で、半紙を縦半分に折り、昭和11年から16年までの分21冊です。

 内容としては、支出帳、区割取立帳は上と下で2冊、他に出不足取立帳、地料取立帳などです。下の写真は昭和11年の区割り取り立て帳の一部です。大部分は米5升となっていますが、大工さん、商店主、お医者さんなどは現金1円40銭となっています。


 なぜか昭和12年の分は見つかりませんでしたが、昭和13年以降の区割り金は1円50銭になっています。

★★ この年初めて評議員になられた大浦正雄さんからは口石の昔の事をいろいろと多くの事を話して聞かせてもらいました。今になってみればその時、メモでもよいので記録をしておけばよかったとつくづく思います。
 平成9年に91歳で亡くなられた時、お葬式に行きましたが、弔辞の中で曾々孫(ヤシャマゴともいう)が数人いて孫・曾孫が50人以上との話が印象的でした。
 大浦正雄さんが住んでおられた家の前庭に古い井戸と「黒髪大明神」とある石の祠が祭ってあります。下の写真のように現在は電動ポンプと配管により蛇口をひねれば水が出るようになっています。春先のシロウオの季節にはこの水で元気よくシロウオが大きな樽の中を泳いでいます。

2010年8月16日月曜日

昭和11年の議事録(木場川に水車・精米所)

   昭和11年1月7日初集会協議事項

1.決算報告一同承認を受く

1.半坂雑木山伐採の件

1.野坂松植の件フケギリ役場委任受けてなす

1.森の木道路改修、巾広め一同承認

1.役員改選

     区長   横田安之助

     代理   志方重太郎

     会計   森田 祖助

  新任 評議員 山本 藤蔵
   〃   〃  森田 喜市
1.区入り分家相談 熊本朝雄
1.区入り 山下茂男、山口市三
   閉会

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★ この年、評議員になられた山本藤蔵さんは当時口石の「龍開(りゅうがい)」(現在山本邦夫さん宅)の所で木場川に水車を回して、精米所をされていたそうです。そこは現在川は護岸がきれいに整備されていて下の写真のようになっています。 
 その後、国道沿いに出られて、精米所をされました。現在も米穀店(下写真)をお孫さんの代になって営業されていますが、精米機や油絞りの機械は今はありません。