2010年11月15日月曜日

昭和20年の会計記録(銃後の守り)

★ 昭和20年の議事録では役員改選のことだけしか書いてありません。戦争が終わったとか、負けたとかの反応が全く感じられませんでした。会計記録は14ページに渡って詳しく書かれています。部落費を班長さんが持ってきた分を日付順に記入されているのでその分が特に多いものですが、特に戦争とかかわるものがさすがに多いのでそこには色を付けてみます。


 1月の最初に出てくるのは「銃後奉公会費として町役場より受入」として34円入金しています。また、5月にも同じ名目で52円入金があっています。「銃後の守り」という言葉は良く聞いていましたが、役所から部落へ金銭が出ていたのは初めて知りました。これもこの2回だけで終わっています。終戦後に出るはずはないでしょう。
 1月17日には防空壕の決算を行い役員の酒肴代に20円出しています。防空壕決算などというのは最初で最後の記述です。

 2月には公会堂(部落の公民館のこと)の障子の張り替えなどのんびりした事をしていると思ったけど公会堂は軍に接収されていますからそのための補修作業をさせられたみたいです。その後、会合に公会堂が使えないので、役員の個人宅でそれぞれ行われているのも記入されています。

 3月には隣保班長新旧交代を行ったり、出征する班長の送別会をしていますが、酒肴代はなく、米代として8円および7円が記録されています。酒はすぐには手に入らなくなっていたのではないでしょうか。

 4月の金比羅さんのお祭りは御神酒2升10円60銭と魚5円50銭を神前に上げ、御初穂10円も神主に出しています。9月も同じく行われています。
国民貯蓄割り当て」というのがあって役員が飲んだ焼酎1.6升8円68銭と肴代6円も記入されています。国民全員に政府は貯蓄を割り当てていたのではないでしょうか。3月までは部落費は毎月70銭でしたが、4月から1円に値上がりし、6月には1円50銭になっています。物価の値上がりがひどかったのでしょう。

 5月に「国民登録表調査」の時8円50銭、米代2円、酒1升代5円40銭等の記録があります。役員が集まって、その後に飲み食いをしています。これも政府が国民総背番号みたいなものを作ろうとしていたのではではないでしょうか。

 7月には「17柱分町葬費」として1戸当たり1円の臨時徴収があっています。この17柱とは佐々町全体の戦死者の事でしょう。口石部落から出征兵士へ餞別金がこの年6人に10円宛出されていますが、最後の日付は8月12日、2人に出されています。

 10月に「町葬費御香典10柱分」として50円支出されています。また口石の戦死者には「御香典松尾昌晴君分」として30円出されています。


 写真は松尾家の墓です。戦死された昌晴さんも入っておられるそうですが、法名塔がないので確認はできませんでした。父親の泰作さん(昭和28年当時口石部落の部落長をされていました)が昭和32年に建てられたと記されています。

 12月の記録に「部落甘藷供出代金」として129円15銭の収入があっています。食糧事情は逼迫していたからでしょうが、芋を供出したのは部落民でしょうから、なぜ部落の収入となったのか不思議です。また9月20日分として「班長集会時米2升、軍部の配給品(焼酎1升1合、玉ねぎ1〆)として17円80銭支出されています。軍部の配給品でも無料ではなかったのでしょうか。

 12月20日には部落会長以下役員報酬が支払われていますが、議事録に書かれていないもので、貯蓄係給として30円あります。貯水池の地代はこの年まで坪当たり1円で変動はありません。

★ 以上、会計記録を書き出してみると、戦争色が色濃く感じられます。物資がなくなり、物価は値上がりし、戦死者の葬式は町でまとめてやっていたことがうかがえます。

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