2010年11月29日月曜日

昭和21年会計記録(戦死者への香典)

 この年の議事録では役員改選の事だけしか記録はありませんでした。しかし、会計の支出の項目を追って見れば、敗戦後の様子がうかがえます。物価はかなりの勢いで値上がりし、酒も手に入らず物不足がひどいようです。

 春秋の金比羅さんのお祭り、7月の村祈祷は例年通り行われていますが、12月の妙見神社のお祭りの記録がありません。

 前年は出征兵士への餞別金の支出が目立ち、戦死者の香典は1名だけでした。しかし、終戦後の21年になってから戦死者への香典が多く出されています。1月から12月までに10名の戦死者に香典が出されていますが、1月までは10円、3月からは30円になり、12月からは50円の香典となっています。


 写真は12月14日に口石部落から50円の香典を貰われた森田強助さん(森田ユキさんの兄)のお墓です。左隣は森田家の統合されたお墓です。この戦死とその後の家族の様子を詳しく聞くことができました。強助さんの父親祖助さん(口石の区長など役員も長くされ、達筆な筆字の議事録も残されています)は昭和21年の6月田植えの準備をしていた田んぼで隣部落の復員兵が通りかかった時、尋ねたところ、強助さんは「戦死されました」と言われ、愕然となりやっとのことで自宅までたどり着いたものの、上り口で倒れこまれたそうです。その後寝込んでしまい回復することなく8月に亡くなられました。その時は戦死公報等来ていないので、強助さんの母親はユキさん(強助さんの妹)を連れて、あちこちの「お神様」と呼ばれるところを訪ね歩かれたそうですが、どこに行っても元気にしているとのご宣託だったそうです。ところが、12月になってビルマ戦線で昭和20年1月29日に戦死していたとの通知が来たそうです。戦死から2年ほど経過してからの通知でした。白木の箱を開けてみたら中には何も入っていなかったそうです。

 軍歌「露営の歌」では

 勝ってくるぞと勇ましく・・・と始まり  「夢に出てきた父上に  死んで帰れと励まされ   覚めて睨むは敵の陣・・・・」こんな文句が空々しく感じられます。

 戦死者への香典は22年の分は8名、23年は2名、24年は1名の記録があります。22年12月以降の金額は100円になっています。それにしても遺家族への戦死の通知が非常に遅かったのですね。

 9月5日の支出で「藤永勘七氏に代 班長会の時 150円」の記録があり、◎の所の文字がなかなか判読できませんでした。書道の先生にも尋ねてみたりして、鶏か雉ではなかろうかとなりました。それにしても高すぎる感じがします。11月19日の部落役員会の時肴代 145円という記録があり納得しました。それにしても物資が不足してずいぶん値上がりしていたみたいです。

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