2011年5月2日月曜日

第十三高等小学校

 口石小学校の校門というよりは国道から入る信号機のすぐ横に「第十三高等小学校跡」と書かれた六角形の柱状節理の自然石の記念碑があります。  この地に明治19年11月10日に創立した長崎県立の小学校です。当時各町村ごとに4年制の尋常小学校がありましたが、明治政府は教育に力を入れて、その上に4年制の高等小学校を置きました。長崎県では全体を20の校区に分けて、この付近では相浦谷、佐々谷、江迎谷まで当時の村の名前でいえば、柚木、大野、皆瀬、中里、山口(相浦のこと)、佐々、小佐々、吉井、世知原、江迎、鹿町の範囲に1校だけ作りました。当時の最高学府で、スパルタ式の非常に厳しい教育方針だったと言い伝えられています。また広い範囲から生徒が来ていたので寄宿舎もあったそうです。旧制の中学が出来る前のことです。この数年後には平戸の猶興館は藩の私塾から猶興館中学となり、佐世保にも佐世保中学が作られることになります。  13番目の名前を持つナンバースクールは足かけ6年の短い期間で、明治25年6月には廃校となりました。その後は北松浦郡8か村立の口石高等小学校としてしばらくは残りましたが、各村の尋常小学校に高等科を併設すようになり、明治31年2月にはなくなってしまいました。このめまぐるしい変遷は時代の嵐のすごさを感じます。

 現在の口石小学校に引き継がれずに、当時の学籍簿や卒業生名簿などは佐々尋常高等小学校に引き継がれ、現在の佐々小学校に残っています。和紙に毛筆で書かれていますから立派に保存状態は極めて良好です。罫線や各項目は活版印刷されていて、細かい毛筆の達筆さにはほとほと感心しました。この明治の中頃の資料は「久保」の意味の朱印が押されていましたが、永久に残るのではないでしょうか。


 校長先生の話では、太平洋戦争末期ごろのものには欠落したものがあるそうです。校長室の金庫の中でもその頃の品質が悪いことが一目見て分かります。

 内容も見せてもらい写真に撮ってきました。めくっていると見覚えのある氏名がずいぶんとありました。「士族」や「平民」がまず書かれ、生年月日は必ず記入されていますから年齢も分かります。まちまちの年齢と、入学した人の約半数しか卒業していない実情も分かりました。退学の理由は多忙、貧困などはっきり書いてありますし、不明というのもあり、転校も少しはあります。授業料も払わなければならなかったのですから、裕福な家庭しか高等小学校には行けなかったようです。



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