2011年5月16日月曜日

高等小学校と神近市子

 第十三 高等小学校から口石高等小学校の記録を調べていたら、神近市子の名前を卒業名簿の中から見つけ出しました。


 神近市子と言えば佐々町出身では全国的に有名になった人はこの人だけでしょう。若い人は知らないと思いますので代議士に当選した時の新聞写真を示します。

 当時の新聞では彼女のことを「女史」と書き習わしていましたのでそれに倣うことにします。女史は明治21年6月6日佐々町の小浦部落で貧乏医者の娘として生まれたと自伝に書いています。佐々で高等小学校を卒業後、長崎の活水女学校へさらに東京は津田塾へとすすみ、新聞記者など活躍の場を広めましたが、三角関係のもつれでは刃傷沙汰まで起こし、刑務所暮らしもしていますが、社会党左派から衆議院選挙に出て当選し、「売春防止法」の成立に名をとどめました。 明治31年3月に尋常小学校を卒業した時の名簿です。本名は「神近イチ」で「神近市子」は文筆活動の時のペンネームのようです。この時は男女共学ですね。3歳の時父親が死んだので兄が保護者となっています。
 次に明治36年3月に高等小学校の卒業のときは、男女別になっています。卒業の時の成績も記入されていて、女史の学科成績は「甲」ですが操行は「乙」となっています。

 女史の子供時代の話は、女の子ではありながら武勇伝的なものが語り継がれています。その事は佐々町郷土史にも書き記るされています。当時流行していた「汽笛一声新橋を」で始まる鉄道唱歌の15番に「ここぞ御殿場 夏ならば 我も登山をこころみん・・・」と富士登山のくだりがあるのを男の子たちが御殿場を「お転婆」と替え歌を歌い冷やかしていたそうです。中には女史に捕まってこっぴどくやられた者もいたそうです。またこの郷土史の編集委員長の宮原九一郎さんから聞いた話では、女史は小学校時代、佐々橋の角材で出来た欄干の上を男子でも出来ないのに平気で歩いていたと先輩から聞いていたそうです。東京で一旗あげた人ですから田舎でこのくらいのことはやりそうですね。

 上写真の角の平屋の家の場所が女史が生まれて小学生時代を過ごしたところですが、昔の家の名残は全くありません。
 現在の佐々橋歩道橋です。コブハクチョウが泳いでいるところに昔の橋の基礎部分のコンクリート跡があります。神近女史が歩いた欄干の橋かどうかは定かではありませんが、この付近だった事は間違いありません。私が早春の「シロウオ漁」をする所はこの下流150メートルの右岸です。







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