2012年1月16日月曜日

石橋(2)前岳橋

.前岳橋(まえだけばし) 吉井町前岳 (佐々川支流福井川)
 架橋:大正11年 橋長:20.5m 橋幅:4m
 吉井町の体育館のそばに架かっています。
 現在この橋は中央分離帯が設けられて、歩道橋も併設されています。石橋部分は写真の右の車道で、左側の車道と歩道はコンクリートの橋です。橋のこちら側には吉井南小学校と中学校がありますので、朝夕には大勢の児童生徒がこの橋を通って通学しています。






 石橋のたもとには「まえだけばし」と親柱石に仮名で彫られたのがあります、大正11年に架けられた時のものです。




 平成15年に歩道橋付きのコンクリートの橋が架けられた時、真鍮製のネームプレートが取り付けられました。漢字では前岳橋と全く変わりませんが、仮名では「まえたけはし」と濁点がとれています。石橋を文化財として大切にしている町ですから、先人が付けた名前は大切にしてもらいたいと思いました。






















2012年1月9日月曜日

佐々川流域の石橋(1)樋口橋

口石からはみ出したついでに、これからしばらく佐々川流域に架かっている橋それも、石のアーチ橋を中心に書いていく事にします。


 この項に関してはすえながのぶを著「佐々川流域の石橋群ガイドブック」をご本人の承諾を得て参照させていただく事にします。


1.樋口橋(ひぐちばし) 佐世保市吉井町樋口(佐々川に架橋)


 架橋:大正11年、橋長36m、橋幅:6.3m 佐々川に架かっている石橋では最も下流のものです。

 佐々川は長崎県では最長の川ですから、それなりの川幅があります。したがって、写真のように2連アーチ橋になっています。2連の石橋は県内に5基しかなく(内2基は移設保存)現役で、車を通しているいるのはこの樋口橋だけだそうです。石橋として、県下最長、最大、最強を誇るものです。 この写真は東京の日本橋の現在の姿です。高架の高速道路が邪魔をしてお江戸日本橋も今ではぱっとしませんが、この橋をモデルにして樋口橋は架けられました。はじめは白い御影石の欄干があったそうですが、昭和の水害の時流されて、その後鉄の欄干に修復されたそうです。 上の写真は皇居の二重橋のものです。樋口橋のたもとの説明板にはこの二重橋を模したと書かれています。3枚の写真を見比べてください。明らかに樋口橋のモデルは二重橋ではなく日本橋である事はお分かりになられるでしょう。東京では周りの環境に押しつぶされそうになっていますが、ここの樋口橋は大水害にも負けず周りの景観を引き立たせる役目をこれからも続けてくれることでしょう。




  

2012年1月2日月曜日

アーチの石橋発見

橋本橋
 車で走っているときは、気付かなくても歩いて通れば意外なことが目に付きます。最近は自転車で出歩くことが多く、この日も吉井、世知原の石橋の写真を撮りに出かけ神田を通りかかった時、道路わきの小さな水路に架かっている橋が、アーチに見えたので近寄って見たけど、土と雑草に覆われていて石の継ぎ目はほとんど分からず、コンクリートアーチのようにも思えました。 川に降りて見たら砂岩の立派なアーチ橋です。しかし、役場の台帳にはこの橋は載っていませんでした。

 その後、近所の人に話を聞きましたが、石橋ということは知っていても、何も気にとめることもなく、普通に使用されていたそうです。この橋を常時使っているところは2軒だけです。いつごろどんな経緯で架けられたかは全く聞いたことがないそうです。石橋にはそれぞれ架橋にまつわる物語が残っているのに、何もないのは不思議な気がしますが、この辺りには昭和の初めに神田(こうだ)炭坑(通称、日鉄神田)が開かれて、神田小学校が出来るほどの賑いとなりました。しかしそれも、昭和36年には閉山してしまいました。
 写真奥の家は、橋本(神田町内会長)さん宅です。前の田んぼに炭坑時代は炭坑のテニスコートがあったそうです。たぶん炭坑が石橋を架けたのだろうとのことでした。流れている川は川添川とのことです。この橋を利用しているもう1軒も橋本さんということでこの橋の名前を橋本橋ということにしようと二人で命名しました。上から読んでも下から読んでも、川も橋も同じ語呂合わせになりました。
 この付近には炭坑時代の遺物がかなり残っています。上写真は神田炭坑の坑口です。橋からすぐ見えます。
 この長く続く石垣は、石炭を運び出すトロッコ線路跡で、手前には線路の橋がかかっていたそうです。




 少し上手に、レンガ作りの炭坑の変電所跡がつる草に覆われていますが数年前までは屋根もありました。







トロッコ橋
 はじめは石炭を積んだトロッコを馬が引いていたそうですが、後からは、軽便鉄道の蒸気機関車が15両程のトロッコを引っ張っていたそうです。場所は軽便鉄道の猪立山(いたちやま)駅、現在では清峰高校前駅と神田駅の中間あたりの佐々川の淵に石のアーチ橋の1条だけ輪石が残っています。この橋も当時はちゃんとした名前が付いていたのでしょうが、今では、トロッコ橋と呼ばれています。増水時には水に揉まれていますが、壊れないのは、アーチの石組の強さを証明しているようです。これも含めると佐々町には5基のアーチ石橋がある事になりました。


 口石金比羅さん物語として書き始めたものの、3年目を迎えて口石だけではネタ切れになってきました。今後は、佐々町・北松・県北地区へと広げていきます。









2011年12月26日月曜日

口石の記念碑(6)鉱害復旧記念碑

赤崎地区鉱害復旧記念碑
 長崎県北のこの一帯は、終戦直後の一時期、黒いダイヤ、石炭で一世を風靡しました。人口は膨れ上がり我々の小中学校はすし詰め学級そのものでした。その時は何ともなかったものが、数十年後、炭坑閉山からずいぶん経って、あちこちで鉱害の影響が出てきました。住宅は傾いたり、田んぼの水漏れなどは国の予算で復旧工事が行われました。今もこの地方の地下には石炭採掘のための坑道が縦横に走っています。復旧工事が終わって、記念碑がたてられるということは、今とは違って、予算にかなり余裕があったのではないでしょうか。
 自民党政権下で行われた、農地の改善事業の場合、いたるところに完成の記念碑だらけということは、ふんだんに予算が付けられていたことの証明ではないでしょうか。
 この地区の記念碑の中で「頭首工」という意味がわからなかったので、当時の関係者に聞いたところ、川から農業用水を取水する時、堰を作りそこから用水路へ水を引くその部分の事を言うそうです。 この辺りには高速道路が走り、様子が変わってしまいました。





2011年12月19日月曜日

口石の記念碑(5)三部妙典塔

三部妙典塔と浦瀬尼の墓
 正福寺本堂左手の墓地に三部妙典塔と浦瀬尼の墓があります。右側の塔には説明が記されています。難解な文章ですが、佐々町郷土史に解読したものがありますので、これを参考にします。




 私は東の都、つまり当時の江戸の生まれであるが、豊功院様に幼少の頃から奉公し、文久三年(1863)に思いがけなくこの地、即ち佐々に住む事になり、年も老いた。小佐々から小石を集めて来て、三部経を一つの石に一字宛書き、智恩報徳のために、清流山正福寺の境内に埋める。





        慶応三年六月廿九日   浦瀬尼





 豊功院(ぶこういん)様とは平戸松浦藩の九代目藩主の松浦清(静山公)のことです。静山公は「甲子夜話」の著者として有名ですが、子供は17男16女と大変にお元気で、娘の愛子さまは明治天皇の祖母になられます。浦瀬尼は口石下の末永家の所に小屋を建てて住まれていたそうです。その家はごく最近まであったそうです。口石では浦瀬さまとか「お部屋さま」と呼ばれて、絶世の美人であったと伝えられています。静山公の大勢の側室の一人ということでしょう。公は天保12年に亡くなられていますので、その後剃髪された浦瀬尼は22年後に口石に来られています。 この塔の左側面には次の短歌が彫られています



   あらとふと弥陀の御法字伝へんと



      数かきのこす一もじの石



         辞世



   雲きりもあらぬ御国に住まいなば



       此世に増してたのしからまし




 この塔の左側には了玄院釈淨信浦瀬大姉と彫られたお墓が明治9年に建てられています。 尚、静山公のお墓は東京にもあるそうですが、平戸にも分骨されて歴代の殿様の墓は雄香寺にあります。豊功院殿静山流水大居士という戒名になっています。
 この静山公の墓には早く亡くなった正室と連名の戒名が記されています。

2011年12月12日月曜日

口石の記念碑(4)殉国英霊之塔

殉国英霊之塔
 昭和35年に正福寺境内に建てられました。昭和27年に金比羅さんに建てられた平和之塔と同じ趣旨のものと思われますが、時代の推移でかなり変わってきたように思えます。警察予備隊が作られ、保安隊となり自衛隊となり再軍備へと保守反動の波が押し寄せてきた感じは否めません。  
 
戦死者名の他に階級が付けられ、戦死の日付と場所も記されています。それによると、明治7年に佐賀で戦死された方が1名だけおられます。この方は江藤新平らの佐賀の乱の時戦死された士族の方のようです。










2011年12月5日月曜日

口石の記念碑(3)口石小学校

 口石小学校は明治年間に開校されたところですから、記念碑もいくつかあります。以前に、長崎県立第十三高等小学校の項でこれに関する記念碑は紹介しましたので、今回はそれ以外の記念碑を紹介します。

 ・ 百年の碑
 校門を入ってすぐの左手の植え込みの中に高くて立派な記念碑が昭和51年に建てられました。明治8年(1875年)4月に口石小学校として現在地移転して誕生しました。明治5年に学制頒布がされ、小浦の古丘庵跡に明治7年4月に小浦小学校が出来ていたのを移したものです。その後、紆余曲折を経て現在の佐々町立口石小学校となりました。



 玄関前のロータリーには校訓碑が昭和58年に建てられました。校訓は「やる気 本気 根気」です。その頃、わが家の3人の子供たちが口石小学校に通っていたので、家の中でも「やる気 本気 根気」と大声で唱えていたので、私も覚えてしまいました。




 その頃はなかったのですが、最近何かと、行事の時に「3気太鼓」というのを口石小学校の子供たちが演奏しているのを見ることがありますが、校訓をこのような形にしたのは立派なものだと思います。