架橋:大正11年 橋長:20.5m 橋幅:4m


石橋のたもとには「まえだけばし」と親柱石に仮名で彫られたのがあります、大正11年に架けられた時のものです。
平成15年に歩道橋付きのコンクリートの橋が架けられた時、真鍮製のネームプレートが取り付けられました。漢字では前岳橋と全く変わりませんが、仮名では「まえたけはし」と濁点がとれています。石橋を文化財として大切にしている町ですから、先人が付けた名前は大切にしてもらいたいと思いました。


日本の西の端、長崎県は佐々町口石にある田舎の・いなかのお話です
平成15年に歩道橋付きのコンクリートの橋が架けられた時、真鍮製のネームプレートが取り付けられました。漢字では前岳橋と全く変わりませんが、仮名では「まえたけはし」と濁点がとれています。石橋を文化財として大切にしている町ですから、先人が付けた名前は大切にしてもらいたいと思いました。
私は東の都、つまり当時の江戸の生まれであるが、豊功院様に幼少の頃から奉公し、文久三年(1863)に思いがけなくこの地、即ち佐々に住む事になり、年も老いた。小佐々から小石を集めて来て、三部経を一つの石に一字宛書き、智恩報徳のために、清流山正福寺の境内に埋める。
慶応三年六月廿九日 浦瀬尼
豊功院(ぶこういん)様とは平戸松浦藩の九代目藩主の松浦清(静山公)のことです。静山公は「甲子夜話」の著者として有名ですが、子供は17男16女と大変にお元気で、娘の愛子さまは明治天皇の祖母になられます。浦瀬尼は口石下の末永家の所に小屋を建てて住まれていたそうです。その家はごく最近まであったそうです。口石では浦瀬さまとか「お部屋さま」と呼ばれて、絶世の美人であったと伝えられています。静山公の大勢の側室の一人ということでしょう。公は天保12年に亡くなられていますので、その後剃髪された浦瀬尼は22年後に口石に来られています。 この塔の左側面には次の短歌が彫られています
あらとふと弥陀の御法字伝へんと
数かきのこす一もじの石
辞世
雲きりもあらぬ御国に住まいなば
此世に増してたのしからまし
この塔の左側には了玄院釈淨信浦瀬大姉と彫られたお墓が明治9年に建てられています。
尚、静山公のお墓は東京にもあるそうですが、平戸にも分骨されて歴代の殿様の墓は雄香寺にあります。豊功院殿静山流水大居士という戒名になっています。
この静山公の墓には早く亡くなった正室と連名の戒名が記されています。
玄関前のロータリーには校訓碑が昭和58年に建てられました。校訓は「やる気 本気 根気」です。その頃、わが家の3人の子供たちが口石小学校に通っていたので、家の中でも「やる気 本気 根気」と大声で唱えていたので、私も覚えてしまいました。
その頃はなかったのですが、最近何かと、行事の時に「3気太鼓」というのを口石小学校の子供たちが演奏しているのを見ることがありますが、校訓をこのような形にしたのは立派なものだと思います。