2011年12月26日月曜日
口石の記念碑(6)鉱害復旧記念碑
長崎県北のこの一帯は、終戦直後の一時期、黒いダイヤ、石炭で一世を風靡しました。人口は膨れ上がり我々の小中学校はすし詰め学級そのものでした。その時は何ともなかったものが、数十年後、炭坑閉山からずいぶん経って、あちこちで鉱害の影響が出てきました。住宅は傾いたり、田んぼの水漏れなどは国の予算で復旧工事が行われました。今もこの地方の地下には石炭採掘のための坑道が縦横に走っています。復旧工事が終わって、記念碑がたてられるということは、今とは違って、予算にかなり余裕があったのではないでしょうか。
自民党政権下で行われた、農地の改善事業の場合、いたるところに完成の記念碑だらけということは、ふんだんに予算が付けられていたことの証明ではないでしょうか。
この地区の記念碑の中で「頭首工」という意味がわからなかったので、当時の関係者に聞いたところ、川から農業用水を取水する時、堰を作りそこから用水路へ水を引くその部分の事を言うそうです。 この辺りには高速道路が走り、様子が変わってしまいました。
2011年12月19日月曜日
口石の記念碑(5)三部妙典塔
正福寺本堂左手の墓地に三部妙典塔と浦瀬尼の墓があります。右側の塔には説明が記されています。難解な文章ですが、佐々町郷土史に解読したものがありますので、これを参考にします。
私は東の都、つまり当時の江戸の生まれであるが、豊功院様に幼少の頃から奉公し、文久三年(1863)に思いがけなくこの地、即ち佐々に住む事になり、年も老いた。小佐々から小石を集めて来て、三部経を一つの石に一字宛書き、智恩報徳のために、清流山正福寺の境内に埋める。
慶応三年六月廿九日 浦瀬尼
豊功院(ぶこういん)様とは平戸松浦藩の九代目藩主の松浦清(静山公)のことです。静山公は「甲子夜話」の著者として有名ですが、子供は17男16女と大変にお元気で、娘の愛子さまは明治天皇の祖母になられます。浦瀬尼は口石下の末永家の所に小屋を建てて住まれていたそうです。その家はごく最近まであったそうです。口石では浦瀬さまとか「お部屋さま」と呼ばれて、絶世の美人であったと伝えられています。静山公の大勢の側室の一人ということでしょう。公は天保12年に亡くなられていますので、その後剃髪された浦瀬尼は22年後に口石に来られています。 この塔の左側面には次の短歌が彫られています
あらとふと弥陀の御法字伝へんと
数かきのこす一もじの石
辞世
雲きりもあらぬ御国に住まいなば
此世に増してたのしからまし
この塔の左側には了玄院釈淨信浦瀬大姉と彫られたお墓が明治9年に建てられています。 尚、静山公のお墓は東京にもあるそうですが、平戸にも分骨されて歴代の殿様の墓は雄香寺にあります。豊功院殿静山流水大居士という戒名になっています。
この静山公の墓には早く亡くなった正室と連名の戒名が記されています。
2011年12月12日月曜日
口石の記念碑(4)殉国英霊之塔
戦死者名の他に階級が付けられ、戦死の日付と場所も記されています。それによると、明治7年に佐賀で戦死された方が1名だけおられます。この方は江藤新平らの佐賀の乱の時戦死された士族の方のようです。
2011年12月5日月曜日
口石の記念碑(3)口石小学校
・ 百年の碑
校門を入ってすぐの左手の植え込みの中に高くて立派な記念碑が昭和51年に建てられました。明治8年(1875年)4月に口石小学校として現在地移転して誕生しました。明治5年に学制頒布がされ、小浦の古丘庵跡に明治7年4月に小浦小学校が出来ていたのを移したものです。その後、紆余曲折を経て現在の佐々町立口石小学校となりました。
玄関前のロータリーには校訓碑が昭和58年に建てられました。校訓は「やる気 本気 根気」です。その頃、わが家の3人の子供たちが口石小学校に通っていたので、家の中でも「やる気 本気 根気」と大声で唱えていたので、私も覚えてしまいました。
その頃はなかったのですが、最近何かと、行事の時に「3気太鼓」というのを口石小学校の子供たちが演奏しているのを見ることがありますが、校訓をこのような形にしたのは立派なものだと思います。
2011年11月28日月曜日
口石の記念碑(2)拓心の碑
この記念碑は口石田原(通称、森の木)のほぼ中央、佐々病院のそばに建てられています。昭和51年から54年にかけて第二次農業農業構造改善事業の完成を記念して「拓心」として「口石田原開田由来記」が刻まれていますので原文通り紹介します。
口石田原由来記
太古、氷河は山を削り、風は谷を穿って幾星霜。
川は南に北に流れをくりかえす。
縄文人は森の影(キ)の川原に石鏃(ヤジリ)をつくり、川窪に魚を追う。
古代、木場谷の周りに稲作がすすみ、
上代、太田は開かれ、川洲にも鍬が伸びる。
中世、ここに根を張る竜神の楠は伐られ、宗寿庵下に治水開拓の縄が引かれた。
風雪を冒して河岸を固め、田に石垣をつみ、土を搬ぶ村人の努力は、往時の川原を美田にかえ、竹ノ本には塩たく煙が立のぼる。
一四二二年応永二九年と、一四三〇年永享二年の正興寺釈迦如来田畑坪付の中に「久知石四段同屋敷一所」が、佐々地頭源存、当住持比丘来遠の署名で残る。宗寿庵である。
遠く六百有余年前、祖先の手に拓かれた穀倉古田にも機械化の波が押よせ、牛馬に代って耕耘機が音をたてる。
今回関係者一同相議し、農道を拡げ、水路を替え、八字(あざ)一七二枚の田を九四筆の圃場に甦らせ完成した。
農業の永遠の栄を念じてこの碑を建つ。
昭和五一年4月吉日
関係者一同
以上が黒御影石の表面に刻まれています。この文章を書いた人は、当時町会議員(共産党所属)をされていた野田銀蔵さん(故人)です。野田さんは共産党議員として普段から地道に活動をされながら、郷土史や考古学に造詣の深い方で、何度か史跡めぐりを案内してもらった事がありました。
口石に限らず、この地方では記念碑には関係者の氏名を書かない風習があるようです。特に、野田さんの場合、共産党議員と言うことで名前を出しにくかったのではないでしょうか。これだけの文言を作れる人ですから、他からの依頼もあり佐々町内には何基か記念碑があります。いずれも本名はなく、無記名か雅号の「芳崖山人」名です。
関係者は後の時代になっても地権者のことですから誰の祖先だとは分かりますが、やはり記念碑にはきちんと記名する方がよいと思います。尚この石碑を作った石工は佐世保市の佐藤退助さんです。
2011年11月21日月曜日
口石の記念碑(1)5分団優勝記念碑
口石金比羅さんにまだ紹介していなかった記念碑があります。
佐々町消防団第5分団が昭和48年に、北松浦郡の操法大会で優勝した時の記念碑です。
さらに、この写真は郡大会優勝を受けて、翌49年に長崎県大会に出場して見事優勝した事を記念して建てられたものです。選手名がまったく書かれていませんので、詳しく書き記します。
分団長 森田 治吉
指揮者 山永 美義
第1操作員 淡田 邦夫
第2操作員 大浦 隆二
第3操作員 大浦 三男
第4操作員 松野 正司
練習は夏場の暑い盛り、仕事を終えてから、佐々中学校のグラウンドに集まり、雨が降らなければ毎日、基本操作の反復練習を行っていました。選手以外の分団員もホースの巻き取りなどの加勢や、OBからは差し入れや応援と新旧団員一丸となった取り組みでした。しかも、郡大会、県大会と2年間に渡る2秒、1秒を縮める厳しいものでした。その甲斐あって優勝の栄冠を勝ち取る事が出来たのでした。
県大会の長崎では、練習では、歩数がなかなか合わずに苦労していたものが、本番ではばっちり決まって満点の出来栄えだったと選手の人は今も良く覚えているとのことです。
2011年11月14日月曜日
佐々の石橋(3)高峰橋
佐々町神田と吉井町の境界を流れる、高峰川に架かっています。道路は町道八口ー川添線の支線です。すぐ近くに八口(やぐち)橋がありその付近に大正5年3月に建てられた「林道開通記念碑」があるので、その頃に架けられた橋かも知れません。
この橋は川の流れに直角に架けられた普通のアーチ橋だったのでしょうが、最近の自動車の通行に合わせて道路改修が行われたために石橋と舗装道路との角度が45度くらいずれたものになっています。
< 草むらに立つ「林道開通記念碑」>
以上佐々町にある石のアーチ橋を紹介しましたが、いずれも100年以上たった今も立派に橋としての機能を果たしています。これらの橋を古い石橋と気付かずに自動車で通り抜けていました。
2011年11月7日月曜日
佐々の石橋(2)江里峠下橋
この橋は前回の江里峠橋のおよそ200メートルほど下流に架かっています。工事が行われたのは、江里峠橋より30数年遅れて、大正10年に旧県道を広げたり、急カーブ、急傾斜を緩和する工事されたときに作られたと言われています。前出の三好芳男さんの話ではこの橋は「下の茶屋橋」と呼ばれていたそうです。すぐ近くに屋敷跡らしいところが残っています。この江里峠には明治なっても茶店が2軒あり、もう一軒は「上の茶屋」と呼ばれていて、現在も神田さんといわれる子孫の方が昔の場所に住まれています。
この橋の特徴は、12メートル余りにも及ぶ橋の幅(アーチの長さ)で、これほどの幅の広い石橋は九州では見ることはできないそうです。橋の上には土盛りがされ、傾斜があるため道路幅はかなり狭くなっています。以前橋の両側にはコンクリートの柱が建てられてその間に鉄のチェーンが掛けられていたそうですが、戦時中に金属の供出のため、この鎖まで無くなったそうです。 アーチや、壁石には「江戸切り」と呼ばれる近代的な削岩様式が用いられ、下流側(上写真)の底には平たい石を敷き詰めて、流れてきた土や石が溜まらないような工夫がされた所が今もはっきり見られます。 上の写真は上流側からのものです。アーチ部や壁面は今もって完璧なものです。
この橋の下を流れている川の名前を調べましたが、佐々町の建設課の台帳にも記載がありません。地図で調べても江迎川の支流の山の田川の支流の高岩川のさらにその支流で名前が付いていません。この川は江迎町側に流れていて、近くに江里川というのもありますが、この川の水は、佐々側に流れている別物です。 橋の名前も台帳にはありません。平成21年4月にこの橋の近くに説明の看板を建てた時、佐々町教育委員会が名前を付けたそうです。おそらく明治・大正の橋を架けた時には名前はあったでしょう。長崎県の当時の台帳があれば記載されているのではないでしょうか。
2011年10月31日月曜日
佐々の石橋(1)江里峠橋
・ 江里峠橋(えりとおげばし)
明治20~21年に、旧県道が整備された事を「口石の旧県道」の所で述べました。そこでは、口石町内だけしか書きませんでしたが、その時に江里峠では立派なアーチ式の石橋が架けられていました。
地元の長老、三好芳男さん(89)の話では付近の田んぼは江里部落の鎌倉神社のものだったそうで、この橋を昔は「宮田橋」と呼んでいたそうです。
江里峠の頂上から少し下ったカーブの所に上の写真の立て看板が立てられました。佐々町の指定文化財となっています。この付近では昔の平戸街道(平戸往還ともいう)を利用して県道は作られました。看板の写真では文字が読みづらいと思いますので、抜粋します。工事請負人は井手儀三郎(西彼杵郡浦上山里村)、石工は樋渡芳蔵(佐賀県有田村)。この橋は北松浦半島で現存するものでは最も古いといわれています。 上流側から、アーチ橋の石垣は全く痛む事もなくしっかりしています。
下流側からの写真です。交通量が増えたり、カーブがあるため道幅を広げていますが、その際、土管を使って土盛りをしている様子が分かります。 なお、この橋の建設に関しては、長崎県の技官山口宗助という人が亡くなられて(病死)その慰霊塔とも言えるもの(上写真)がこの橋のすぐそばに建てられています。北松浦郡長従七位 朝長東九郎 選文並書
の漢文での長い文章が刻まれていて、今もはっきり読み取れます。
戦時中、肉弾三勇士で有名になったその一人、北川伍長の生家のすぐ近くです。
2011年10月24日月曜日
口石の橋(10)高速道路の橋
・木場川橋 (こばがわばし)
富田橋(通称とんだばし)の所に架けられました。この付近は護岸工事も行われて、一帯の様子がずいぶん変わりました。
・口石大橋 (くちいしおおはし)
妙見橋(通称ぜんもんばし)の所から、森の木田原の上を縦断していて、全長が600メートルにも及ぶ陸橋です。我が家からも近いところで、コンクリートを打つ作業の時は交通規制もあり、回覧板を回したりもしました。長い期間工事が続き、途中で建設会社の倒産でしばらくは工事がストップしたこともありました。左官さんとも知り合いになり話を聞いていたら、島原半島の有家の人たちで、仕事が終わってから車を乗り合わせて帰り翌日は朝間に合うように来るというのですから大変な通勤時間に驚きました。この橋の建設が高速道路の建設の実感を感じていました。
・口石跨道橋(くちいしこどうきょう)
佐々ICと相浦中里ICのちょうど中間地点の山頂に架けられています。高速道路を走っていると山の中でよく見かけるものですが、先日現地まで行ってみて渡りましたが、立派なものです。イノシシも渡りやすいでしょう。 この付近には、広い空き地があり「国土交通省」の名が入った境界の杭がたくさん打たれています。サービスエリアの建設予定地だそうです。この西九州自動車道路は佐々から松浦、伊万里、唐津を通って福岡まで延びる計画はずっと前に発表されました。しかし、今の財政状況では、佐々が永久に終点になりそうな感じがします。サービスエリアも今の状況では出来てもお客は入らないでしょう。
2011年10月17日月曜日
口石の橋(9)平田橋、半坂橋
順手川の最上流、平田溜池の水の落とし口の所に昭和61年に架けられました。当時定時制高校勤務をしていたので、早朝から大型トラック(トレーラーだったかも知れない)何台もやってきて工事を始めたので、物珍しくずっと見ていて工事関係者とも話をしたりしました。
写真からも分かりますが、川幅は狭いのですが、川を斜めに横断するために、かなり長いコンクリートの橋桁が6本、6台のトラックで運ばれてきました。その他に大型のクレーン車もきました。作業が始まって間もなく、橋桁を下ろそうとしたクレーン車がゆっくりと傾き始めそのまま横倒しになりました。たしかその日は、雨上がりで足場はあまり良い状態ではありませんでした。パイプを組み立てた大型のクレーン車が倒れたのですから、どうなるのだろうと思っていたら、かなり時間がたってから、小型のクレーン車がやってきて助け起こし作業は、その後順調に進みました。
その時、久留米ナンバーのトラックの運転手たちは、かなり待たされたので、付近の順手川で「サワガニ」捕りを始めました。口石の者は誰も捕らないのでかなりの量を捕まえていました。これは大変旨いのだと運転手たちは話してくれました。
その後、道路も整備され町道「淨香谷(ジョーゴダニ)線」は千本団地建設など利用が広がりました。
橋であるのは間違いないでしょうが、橋と言うよりは、溝蓋と言った方がよさそうですが、町の台帳には、半坂橋と記入されています。川の名前は記入されてなく不明です。この川の水は大山口の堤に注いでいます。最初に通ったころからすれば、かなり広くなっています。3度工事された経過が良く分かります。
橋を利用する民家は最初の頃は、2戸だけでしたが、現在では6戸と1施設、この施設はグループホームです。車社会となり道路の幅も広くなりました。
2011年10月10日月曜日
口石の橋(8)順手3号橋、4号橋
町道正福寺線に架かっている橋です。この町道が出来る前には、歩いて通る事が出来る細い道がありました。しかし、ここの橋は古い電柱を1本置いてあるだけだったので、小学生は面白がって歩いていましたが、大人はめったに渡っていないようでした。この道路が出来て橋がかかったら車も通れるようになりましたが、途中の道幅が狭くて、バックしなければ離合できないところもあります。
・順手4号橋
4号橋は3号橋から10メートルほどしか離れていませんが、こちらは、佐々町道淨香谷線に架かっています。早く出来たのが、正福寺線で淨香谷線が後から出来たのにこの二つの町道が交差するここでは、正福寺線の方が一旦停止しなければなりません。私には不自由になりました。