長崎県北のこの一帯は、終戦直後の一時期、黒いダイヤ、石炭で一世を風靡しました。人口は膨れ上がり我々の小中学校はすし詰め学級そのものでした。その時は何ともなかったものが、数十年後、炭坑閉山からずいぶん経って、あちこちで鉱害の影響が出てきました。住宅は傾いたり、田んぼの水漏れなどは国の予算で復旧工事が行われました。今もこの地方の地下には石炭採掘のための坑道が縦横に走っています。復旧工事が終わって、記念碑がたてられるということは、今とは違って、予算にかなり余裕があったのではないでしょうか。
自民党政権下で行われた、農地の改善事業の場合、いたるところに完成の記念碑だらけということは、ふんだんに予算が付けられていたことの証明ではないでしょうか。
この地区の記念碑の中で「頭首工」という意味がわからなかったので、当時の関係者に聞いたところ、川から農業用水を取水する時、堰を作りそこから用水路へ水を引くその部分の事を言うそうです。
この辺りには高速道路が走り、様子が変わってしまいました。

尚、静山公のお墓は東京にもあるそうですが、平戸にも分骨されて歴代の殿様の墓は雄香寺にあります。
この静山公の墓には早く亡くなった正室と連名の戒名が記されています。






この橋は川の流れに直角に架けられた普通のアーチ橋だったのでしょうが、最近の自動車の通行に合わせて道路改修が行われたために石橋と舗装道路との角度が45度くらいずれたものになっています。
アーチや、壁石には「江戸切り」と呼ばれる近代的な削岩様式が用いられ、下流側(上写真)の底には平たい石を敷き詰めて、流れてきた土や石が溜まらないような工夫がされた所が今もはっきり見られます。
上の写真は上流側からのものです。アーチ部や壁面は今もって完璧なものです。
江里峠の頂上から少し下ったカーブの所に上の写真の立て看板が立てられました。佐々町の指定文化財となっています。この付近では昔の平戸街道(平戸往還ともいう)を利用して県道は作られました。看板の写真では文字が読みづらいと思いますので、抜粋します。工事請負人は井手儀三郎(西彼杵郡浦上山里村)、石工は樋渡芳蔵(佐賀県有田村)。この橋は北松浦半島で現存するものでは最も古いといわれています。

なお、この橋の建設に関しては、長崎県の技官山口宗助という人が亡くなられて(病死)その慰霊塔とも言えるもの(上写真)がこの橋のすぐそばに建てられています。北松浦郡長従七位 朝長東九郎 選文並書

















すぐ横に、佐々町消防団第5分団の消防詰め所があります。

