2010年12月27日月曜日

昭和23年度末議事録(4-3月年度へ移行)

 昭和24年1月7日 初集会協議事項案

1.初集会変更の件

 初集会期日は3月20日とし、若し差し支えのときは順延とす

2.部落費増額の件

 1月、2月、3月共各戸30円出金とす

3.時間励行の件

 定時来たれば直ちに開会し各組長は各組の出席の報告をなすこと

4.出不足徴収の件
 労働するときの出不足は徴収する、但し1日分100円、半日は50円として女は男の7分とす。若し特別の場合はその時の話し合いとする

5.農道及び山林道建設の件
 吉富写真屋の下より起工して出来るだけ建設する
 口石区内の町道の修繕を町当局に申し込むこと

6.衛生に関する件
 汚物、硝子其の他危険物処理場設置の件、各人で他人に害せざるように捨てること

7.その他の件
 不幸の場合の差し合わせ米は1ケ年以上の人は20円也、1ケ年未満は10円とす、百日以下は差し合わせなし

8.葬具建造の件は宿題にする

9.消防団補助の件
 昭和23年度10000円とす
 昭和24年度10000円とす



  昭和24年3月20日総会

1.昭和23年度決算報告

 山永朝一氏より議案提出
 公民館の修繕費積立金の件
 4月より月各戸出金30円の内より1円宛を積み立てる事

2.役員改選の件
 代理は会計を兼ね配給もすること
 各組に評議員1名宛を置き組長を兼ねる
 年手当
 嘱託  金1500円
 代理兼会計 金1500円也
 評議員1名に付き500円也 8人4000円

 嘱託投票は予選して最高点数より4名を挙げ候補者として選挙す

 嘱託当選者 横田安之助氏
 次点     山本藤蔵氏

 代理会計 当選者  大浦信一氏
  次点        山本藤蔵氏

 評議員 1組 森田 2組 前川 3組 松田 4組 力竹 5組 藤永 6組 小村 7組 荒木  8組 大浦

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 1月7日に例年通り「初集会」が行われました。これまで一度だけ消防団の出初式のため期日の変更があっても毎年行われてきました。しかし、この日を最後に行われなくなりました。それに代わって、3月末に年度末の総会を行うことになりました。近頃は2月末ですが、それ以来ずっと初集会はなくて、総会がおこなわれるようになりました。
 この年は班長といわずに「組長」と呼んでいます。この組長は評議員も兼務しています。

★ 7組の組長の「荒木」さんは荒木泉さんの事です。この前後長い間組長(班長)をされています。後には部落長や町内会長もされました。 

 上の写真は荒木泉さんのお宅です。炭坑の坑道が家の下を通っていたために地盤工事などで不自由な事もあられましたが、現在は復旧工事も無事に終わっています。

 中二階に上がると、大きな松の木を使った梁がありました。この松材は、平戸街道それも半坂道付近のものを使って建てられたそうです。 

2010年12月20日月曜日

昭和23年の議事録(部落長は嘱託員へ)

  昭和23年1月7日初集会

1 嘱託員挨拶公会堂にて 

2 会計報告部落民一同の承認を受くる

3 部落会費1戸宛5円を10円に承認を受く

4 口石須崎免池田新氏長次分家をする事承認を受く

  同 大浦正雄内の大浦新吉分家する事承認を受く

5 貯水池1坪宛米1升代金を支払事

6 嘱託員以下の役員改選ををする

7 役員一同給料を上ぐる事を承認して左の通りする

8 嘱託員  800円也 
  副配給  800円也 
  会計    300円
  評議員 4名 200円
  隣組長 8名 200円

9 役員改選は部落民一同選挙

   嘱託員  池田 新
   副配給  山本藤蔵
   会計    横田安之助
   評議員  山本吾一 末永稲吉 志方重太郎 大浦信一
右の通り相成り候(戦後なのに候文)

 昭和23年3月30日 ★★

   新嘱託員  池田 新
   旧     森田亀一
   新副嘱託  山本藤蔵
     会計  横田安之助

  右の通り嘱託員を引継を完了したり
   昭和23年3月31日
             森田亀一
 池田新 殿

    7月15日 口石区総会す

1.警察後援会会員設立及び委員選挙

 委員は松尾泰作氏当選す

 山本藤蔵氏池田新区に於て世話する事になる

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★ 嘱託員という言葉が初めて出てきました。現在の町内会長の事です。身分的にいえば今も佐々町の嘱託員に町内会長はなっています。
 そして、この会長と副会長の手当が同額の800円になっています。普通には考えられない事が起こりました。今までは2倍以上の差がありました。ということは現在と同じように町の嘱託員ということで町役場から、嘱託員手当が出るようになったということでしょう。
 最近では副会長兼会計の方が町内会からもらう手当は会長よりは少し多くなっています。理由は会長は役場からもらうので町内からは少なくてよいというこてです。
 町内会の総会の時、その事を知らずに会長手当が副会長より少ないのはおかしいという質問がされたりしています。会長が町役場からもらう手当は佐世保市の町内会長(公民館長という場合もあります)よりは高いものですが、研修に行った福岡県の同規模の町よりは少ない額でした。以前魚釣りが好きな会長さんが、魚釣りの餌代には十分過ぎる金額であると言われていたのを思い出します。
★ 下の写真は新体制になって最初の部落長をされた池田 新さん方の井戸のあたりで今もその当時のままだそうです。井戸には鉄板の蓋がかぶせられていて、右側の祠はお稲荷さんを祭ってあります。

 池田新さんは戦前は村会議員や村の収入役もされたそうですが、戦後は佐々農協の組合長をされその経済的手腕で県下有数の組合にされたことで有名です。晩年に老人の棟梁に家の新築を任せておられて、その時棟梁も交えて3人で少し話した事が思い出されます。

★★ この年から3月末に事務引き継ぎが行われ、年度の区切りが4-3月になった事が確認されます。




2010年12月13日月曜日

昭和22年会計記録(大幅値上げ)

 戦後の混乱期物資不足による値上げのためでしょう。町内会費もぐんぐん上がっています。
★ 1月分から昨年の1円50銭から2倍の3円に上がっています。さらにこの年は前年度の赤字の補てんのために一戸当たり7円を1月に臨時徴収しています。

 5月からはさらに値上がりして1戸当たり月5円に値上がりしています。それも各班長さんが毎月集めて会計さんの所に納めています。あまり文句を言う人もいなかったのでしょうか。しかし班長さんはかなり苦労したらしく、2度にわけたりとか、2か月分をまとめて納めたりとか難儀されています。


 前年度末には赤字になるため、部落長(藤永藤七さん)から1000円借金をしています。その時は千円といえば大金だったでしょう。3月3日に返却されています。

(写真は藤永藤七さん宅の現在のたたずまいです。井戸は昔のままで、屋敷の場所も変わっていないそうですが、ほとんど立て替えられているそうです。それにしても旧家の面影がしのばれます)

 12月の年度末の「計算の時」として「夕食其の他」の名目で1100円の支出があります。場所は会長の森田亀一氏宅です。 役員手当は全員の年間分で2200円ですから、物資が不足して酒代などがかなり高騰していたことがうかがえます。

 男女青年団及び婦人会への補助として各200円計600円も出してあります。

2010年12月6日月曜日

昭和22年の議事録(第1回統一地方選挙)

  昭和22年1月7日  初集会 (公会堂)

     協議事項


1.会計報告一般承認を受く


2.部落会費一世帯月額金1円50銭也を昭和21年度物価騰貴により赤字補填の都合上昭和22年1月分より、金3円宛徴収のことに決定す


3.昭和21年度の赤字補填の為め又は役員慰労金贈呈の都合により臨時徴収をなすことに決定


      左金額


 昭和21年度の赤字 370円78銭


慰労金   部落会長 100円


       副部落会長 70円


       会計     50円


       隣保班長  50円 8名分400円


 合計 合計970円78銭(臨時費)


4.昭和22年度役員給決定左の通り


   部落会長 年額  600円


   副会長兼配給係  300円


   会計          100円


   隣保班長       100円宛


5.部落内に従来居住者にして一時的他出して、念仏講のみに継続料として米5合代を部落中に出米出金等なし居る者は帰住する時は部落民同様に取扱ものなり(入部落費を要せず)


6.鶏は放し飼いをなさざること、もし他人の農作物に害を及す様なことある時は、被害者より手を出されても異議なき様、申合す


7.薪取りに他人の山林に勝手に出入りをなさぬことを申合をなす



    昭和22年3月14日 晩 於公会堂

1.部落会開催 3月中の町常会の諸事項徹底及報告をなす2.上防空壕問題に付き種々協議意見続出し結局後日研究の余地を残し打ち切る

3.之を以て部落会長は部落会の解散を宣す


1.部落会解散の後部落の協議会となり部落代表者、副代表者及町会議員資格審査受けさせる者の選出の件に付き協議す 先ず座長選任一同協議の結果 松田禎一氏を座長とし会務を処理す


2.座長は先ず部落の代表者及副代表者選出方法に付き一般意見を問う種々意見ありしも結局現隣保班長方に於いて適任者4名の選出方を一人せり隣保班長方は慎重に協議し左の4名を選出す


 松田幸四郎 山本藤蔵 森田亀一 志方健一 右の4名を一般投票に附し最高点を代表者次点を副代表者と定め一般投票に付すその結果


 代表者 森田亀一43票 副代表者 山本藤蔵20票 松田幸四郎18票 志方健一9票 右当選決定


3.座長は次に町会議員資格審査を受ける者を如何にして選出するやを計る 種々意見は続出しても決する所各隣保毎に適任者適任者1名宛出し其の内より2名の候補者を一般投票に依て決する様協議申合をなし左の7名を選出一般投票としたり


1班 ナシ 2班 山永朝一15票 3班 藤永源市11票(★★) 4班 尾崎九蔵5票 5班 藤永善七5票 6班 山本藤蔵24票 7班ナシ 8班 池田新21票 横田健雄5票


 右公認とし資格審査を受可者


山本藤蔵氏 池田新氏の両名と決定 

4.部落の機構の改革と共に(役場ヨリ指示ノアル次第)当部落に評議員6名位を設置してはとの意見もあり又隣保班を12班に増班の意見もあり後日研究をして決す可く協議したり

5.志方重太郎氏長女の養子志方栄一氏分家の相談あり部落一同異議なく承認す


        右
  昭和22年4月1日 午後


1.新代表者 森田亀一


  旧部落会長 藤永藤七


  新副代表者 山本藤蔵

  旧副部落長 池田 新


  旧会計    松田幸四郎


右立会の上当部落の事務引継を完了したり

    3月14日


昭和23年嘱託員給料


 嘱託員 600円 


 副配給 300円


 会計   100円

 評議員 4人 100円宛


 隣保組長 8人 100円宛1人前


  計 2200円也


 評議員 藤永三代四郎 山永朝一 藤永善七 大浦正雄

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 長々と議事録が書かれていますが、この昭和22年の4月1日には隣組が廃止になり、4月5日に第1回の統一地方選挙がおこなわれています。そのために戦後の新しい選挙法による選挙のために、口石部落として町会議員候補の推薦をしたのでしょう。


★ 山本藤蔵さんと池田新さんの2名を部落推薦候補に決めたいきさつが詳しく述べられています。この時の選挙結果を調べるために、佐々町の議会事務局に行き議員の名簿を見せてもらいましたが、2人の名前はありませんでした。口石の人は誰もいませんでした。この2人は当選できなかったか、立候補しなかったのか分からないので、こんどは選挙管理委員会に行き尋ねたけど、古い文書は倉庫に保管しているので後日調べて連絡するとのことでした。その後電話で連絡がありましたが、当時の資料がまだ見つからないとのことでした。昭和30年代の水害でなくなったかもしれないとのことでした。

 写真は池田新さんが85歳ごろ新築された家です。現在は孫娘の家族が住んでおられます。

★★ この時部落の投票で4位になった藤永源市さんは町長選挙に立候補して新人5人の激戦を制して、見事に当選されました。部落の投票で2位以内だったら町長選挙に立候補できなかったのではないでしょうか。





 

2010年11月29日月曜日

昭和21年会計記録(戦死者への香典)

 この年の議事録では役員改選の事だけしか記録はありませんでした。しかし、会計の支出の項目を追って見れば、敗戦後の様子がうかがえます。物価はかなりの勢いで値上がりし、酒も手に入らず物不足がひどいようです。

 春秋の金比羅さんのお祭り、7月の村祈祷は例年通り行われていますが、12月の妙見神社のお祭りの記録がありません。

 前年は出征兵士への餞別金の支出が目立ち、戦死者の香典は1名だけでした。しかし、終戦後の21年になってから戦死者への香典が多く出されています。1月から12月までに10名の戦死者に香典が出されていますが、1月までは10円、3月からは30円になり、12月からは50円の香典となっています。


 写真は12月14日に口石部落から50円の香典を貰われた森田強助さん(森田ユキさんの兄)のお墓です。左隣は森田家の統合されたお墓です。この戦死とその後の家族の様子を詳しく聞くことができました。強助さんの父親祖助さん(口石の区長など役員も長くされ、達筆な筆字の議事録も残されています)は昭和21年の6月田植えの準備をしていた田んぼで隣部落の復員兵が通りかかった時、尋ねたところ、強助さんは「戦死されました」と言われ、愕然となりやっとのことで自宅までたどり着いたものの、上り口で倒れこまれたそうです。その後寝込んでしまい回復することなく8月に亡くなられました。その時は戦死公報等来ていないので、強助さんの母親はユキさん(強助さんの妹)を連れて、あちこちの「お神様」と呼ばれるところを訪ね歩かれたそうですが、どこに行っても元気にしているとのご宣託だったそうです。ところが、12月になってビルマ戦線で昭和20年1月29日に戦死していたとの通知が来たそうです。戦死から2年ほど経過してからの通知でした。白木の箱を開けてみたら中には何も入っていなかったそうです。

 軍歌「露営の歌」では

 勝ってくるぞと勇ましく・・・と始まり  「夢に出てきた父上に  死んで帰れと励まされ   覚めて睨むは敵の陣・・・・」こんな文句が空々しく感じられます。

 戦死者への香典は22年の分は8名、23年は2名、24年は1名の記録があります。22年12月以降の金額は100円になっています。それにしても遺家族への戦死の通知が非常に遅かったのですね。

 9月5日の支出で「藤永勘七氏に代 班長会の時 150円」の記録があり、◎の所の文字がなかなか判読できませんでした。書道の先生にも尋ねてみたりして、鶏か雉ではなかろうかとなりました。それにしても高すぎる感じがします。11月19日の部落役員会の時肴代 145円という記録があり納得しました。それにしても物資が不足してずいぶん値上がりしていたみたいです。

2010年11月22日月曜日

昭和21年の議事録(小浦塩田)

   昭和21年1月7日 初集会(於て公会堂)

      協議事項

1.会計報告をなし一般の承認を受く

2.部落費月額1円50銭なりとしを引き下げてはとの意見ありしも従前通り1円50銭を保留する事に決定す

3.一般配給品を多量申請して取る様、申請運動を起こす様との希望ありしも之又無為なるため議題にならず

4.部落の保有酒を取らず各班に分くる様にとの意見ありしも之又従前通り保留する事に決す

5.部落会長並に代理兼配給係並に会計三役の改選に付き藤永藤七氏の座長に推され選挙方法を協議の結果

 先ず部落会長一人を選出し後二役は第二回にするものとす 選出の方法としては予選をして候補者を最高点より三名を取り之を再選挙することに決す
 選挙の結果左の3名が候補者となる
        藤永藤七
        池田 新
        松田幸四郎

右候補者三名の内本選挙せしめたるにて
  
 会長  藤永藤七氏当選
 
会長代理兼配給係と会計の選挙方法は二名の氏名を記し高点を代理兼配給係とし次点を会計とする事に決議し之に依て選挙せしに左の通りなり
   
代理兼配給係 池田 新
   会計  松田幸四郎

 
 昭和21年3月31日 部落会長引き継ぎ
   午後7時より公会堂に役員及び隣保班長会を開き左の件議定

一、前部落会長及び役員に慰労金贈呈の件附議決定
 
 全額300円也 金100円 前部落会長
           金100円 前副部落会長
           金70円  隣保班長8名内1名は会計兼任
           金20円  会計主任
           金10円  前貯蓄部長

一、青年会に対する指導の方針を議す、其他配給方法に付き考究午後10時散会す

 昭和21年7月4日 隣保班長会


一、塩田の穴敷菰(こも)供出  

 部落に於いて1枚に付き15円と定め、町より支払われたる金額に部落より補助して15円となし支払うこと

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★ 塩田について(口石の隣の町内会です)



       (小浦駅ホームにある塩田跡の記念碑)

 佐々町の小浦海岸は江戸時代後期に塩田が作られていました。昭和の時代には塩田は操業されてはいないと思っていましたが、終戦直後の物資がない時には塩田が復活したのではないでしょうか。
 夏場の大雨による水害で塩田に大きな穴が開いたのではないでしょうか、そこで佐々町内に安い金額で「菰」の供出を呼び掛けたのでしょう。口石部落としては最大限協力する意味合いもあって15円は保障するので、たくさん集まるよう知恵を絞った事だと思います。
    (小浦駅前の塩田跡は干拓地になっている)



 (明治に作られた専売公社のレンガ造りの倉庫が今も残っています)
   

2010年11月15日月曜日

昭和20年の会計記録(銃後の守り)

★ 昭和20年の議事録では役員改選のことだけしか書いてありません。戦争が終わったとか、負けたとかの反応が全く感じられませんでした。会計記録は14ページに渡って詳しく書かれています。部落費を班長さんが持ってきた分を日付順に記入されているのでその分が特に多いものですが、特に戦争とかかわるものがさすがに多いのでそこには色を付けてみます。


 1月の最初に出てくるのは「銃後奉公会費として町役場より受入」として34円入金しています。また、5月にも同じ名目で52円入金があっています。「銃後の守り」という言葉は良く聞いていましたが、役所から部落へ金銭が出ていたのは初めて知りました。これもこの2回だけで終わっています。終戦後に出るはずはないでしょう。
 1月17日には防空壕の決算を行い役員の酒肴代に20円出しています。防空壕決算などというのは最初で最後の記述です。

 2月には公会堂(部落の公民館のこと)の障子の張り替えなどのんびりした事をしていると思ったけど公会堂は軍に接収されていますからそのための補修作業をさせられたみたいです。その後、会合に公会堂が使えないので、役員の個人宅でそれぞれ行われているのも記入されています。

 3月には隣保班長新旧交代を行ったり、出征する班長の送別会をしていますが、酒肴代はなく、米代として8円および7円が記録されています。酒はすぐには手に入らなくなっていたのではないでしょうか。

 4月の金比羅さんのお祭りは御神酒2升10円60銭と魚5円50銭を神前に上げ、御初穂10円も神主に出しています。9月も同じく行われています。
国民貯蓄割り当て」というのがあって役員が飲んだ焼酎1.6升8円68銭と肴代6円も記入されています。国民全員に政府は貯蓄を割り当てていたのではないでしょうか。3月までは部落費は毎月70銭でしたが、4月から1円に値上がりし、6月には1円50銭になっています。物価の値上がりがひどかったのでしょう。

 5月に「国民登録表調査」の時8円50銭、米代2円、酒1升代5円40銭等の記録があります。役員が集まって、その後に飲み食いをしています。これも政府が国民総背番号みたいなものを作ろうとしていたのではではないでしょうか。

 7月には「17柱分町葬費」として1戸当たり1円の臨時徴収があっています。この17柱とは佐々町全体の戦死者の事でしょう。口石部落から出征兵士へ餞別金がこの年6人に10円宛出されていますが、最後の日付は8月12日、2人に出されています。

 10月に「町葬費御香典10柱分」として50円支出されています。また口石の戦死者には「御香典松尾昌晴君分」として30円出されています。


 写真は松尾家の墓です。戦死された昌晴さんも入っておられるそうですが、法名塔がないので確認はできませんでした。父親の泰作さん(昭和28年当時口石部落の部落長をされていました)が昭和32年に建てられたと記されています。

 12月の記録に「部落甘藷供出代金」として129円15銭の収入があっています。食糧事情は逼迫していたからでしょうが、芋を供出したのは部落民でしょうから、なぜ部落の収入となったのか不思議です。また9月20日分として「班長集会時米2升、軍部の配給品(焼酎1升1合、玉ねぎ1〆)として17円80銭支出されています。軍部の配給品でも無料ではなかったのでしょうか。

 12月20日には部落会長以下役員報酬が支払われていますが、議事録に書かれていないもので、貯蓄係給として30円あります。貯水池の地代はこの年まで坪当たり1円で変動はありません。

★ 以上、会計記録を書き出してみると、戦争色が色濃く感じられます。物資がなくなり、物価は値上がりし、戦死者の葬式は町でまとめてやっていたことがうかがえます。

2010年11月8日月曜日

昭和20年の議事録(書類入れ木箱)

 昭和20年1月7日(於公会堂)
      協議事項

一、会計報告 承認を得

一、役員改選の件

 力竹増太郎氏議長となり各班より三名宛を選出し推薦員として別座で協議の結果左の通り推薦あり

   部落会長    横田健雄

   代理兼配給係  森田亀一

   会計       山永朝一

 右三名とも承認なく後日に至って改選することに決す

一、各班長は後日班内の推薦あるいは選挙にて選出する事に決し本日は各役員並びに班長の決定せず散会

一、会長以下三名の役員を推薦通り度々相談に会せたるため三月末に至りて三名とも承認あり 又班長も各班より申し出あり左の通り

   第一班  小川益一
    二   藤永三代四郎
    三   松田幸四郎
    四   佐伯寅一
    五   宮島熊太郎 
    六   山本藤蔵
    七   川副 豊
    八   池田 新


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 昭和20年は大東亜戦争敗戦の年です。当時の議事録を読んでいて気付くのは、ペン書きでその質が悪いことです。普段はコピーを読んでいますが、この頃のは読みづらくて原本を見ながら判読しました。

 この年の記録は、役員改選の事だけでした。役員のなり手がなくさんざん苦労している点は最近も同じようなものです。それにしても敗戦に至る経過などは全く記録されていません。

★ 口石5班の班長さん宮島熊太郎さんは大工さんでした。孫の真知代さんの旦那さんは左官さんで父親は鍛冶屋さんと3代とも職種の違う職人さんだそうです。

 このブログのはじめの頃に明治43年に作られた木箱の事を書きましたが、昭和18年7月6日の会計帳簿には「召書入箱代」として宮島氏へ3円支払ったとの記録があります。蓋つきのきっちりとしたものです。今年の集会所完成の際に見つかりました。
 (写真は、昭和18年に宮島熊太郎さんが作ったと思われる町内会の書類入れの木箱)





2010年11月1日月曜日

昭和19年の会計記録から(戦死者の町葬)

 前年度繰越金104円49銭から始まります。

 前年まで「区費」と言っていたものが、「部落費」となりました。1戸当たり月額70銭は変わりませんが、前年より少し世帯数が減って120戸分が、1月、2月に入っています。この年は、多くても123戸分しか部落費は集まっていません。16年12月に始まった大東亜戦争が地方にも影響が出て来ていたのではないでしょうか。

 部落費の使途で一番回数が多いのは役員会などの飲み会です。

   2月 田、山林調査の時役場員の酒代 11円50銭

   3月 部落会長役員引き継ぎ酒代 42円05銭

   3月 新旧評議員会 焼酎1升 3円50銭

   4月 金比羅様お神酒他  44円30銭

   4月 割宅米の時酒1升 3円45銭

   4月 国民貯蓄割り当ての時 18円97銭

   5月 婦人会総会の時の酒代 15円

   7月 村祈祷の時酒肴、他 37円75銭

   9月 隣保班長会 焼酎肴代 7円40銭

   9月 金比羅神社お神酒 15円

   9月 観音様お神酒 7円65銭

  11月 丑供養様お神酒 5円

  12月 妙見神社祭典お神酒 10円

  12月 年末決算 酒2升 10円60銭

 回数は多いと見るべきでしょうか、以前は「酒」だったのに「焼酎」が良く出るようになりました。お年寄りの話では、酒は配給でそうは手に入らなかったので、朝鮮さんが作っていた焼酎をヤミで買っていたのかも知れないとのことでした。


 3月と4月の間に赤線が引かれ4月から19年度と欄外に書かれています。会計年度を4月ー3月とする動きがあったのかもしれませんが、やはり12月で締めていて変わりはありません。

 6月に小川魁君餞別、春本寅市君餞別、横田正雄・永石君餞別、森田喜一氏養子出征餞別と5人に各10円の餞別が記入されて、餞別及び香典は雑費出入簿に記入する為消すと書かれて斜線で消されています。このうち小川さんと森田さんは戦死されました。このひと月だけで5人出征して2人が戦死されています。

 7月に春本丈助さんの戦死が報じられています。これに伴う支出が詳しく記録されています。特大の金蓮一対及び2人分旅費 19円80銭、供え物瓜 1貫500匁 4円50銭、戦死時大工手洗酒 焼酎1升 5円、以上は部落費から出していますが、お葬式の際の祭壇作りには町役場から大工の手間賃10円が部落に渡されて2人の大工さんに5円づつ渡されています。春本さんのお葬式は佐々町葬だったようです。場所は口石小学校の校庭で行われました。
   上の写真は春本丈助さんのお墓です。昭和19年5月23日 ニューブリテン島ラバウルにて戦死 33歳 戒名は英徳院孝菴正忠居士とあります。

 電燈料 8円40銭 が年度末に払われています。公会堂の電燈代が年間この金額だったのでしょう。電気代の記録はこれが最初です。はじめの頃は、年払いですが、後からは毎月支払うようになり、金額もだんだん上がっていきます。

★ 部落費の支払い金額で最も多いのが役員報酬です。前回の19年の議事録の記録と少し違うところがありますから、全部書きます。  会長 300円、 会長代理兼配給係 130円、貯蓄係 30円、会計給 70円、隣保班長8名分 240円。議事録にない「貯蓄係」と「会計係」が追加されています。会長と班長に関しては議事録と変わりはありません。 

2010年10月25日月曜日

昭和19年の議事録(部落会長兼警防分団長、友田校長)

 昭和19年1月7日 初集会をなす
      協議事項
1.計算報告をなす一般承認を得

1.部落会長代理は兼会計及配給係をなさしむ
  年手当160円と定む

1.隣保班長は8名と定め1名に付き手当30円定む

1.部落会長、副会長、班長の任期は1ケ年とし再選することを得

1.部落会長及び副代理の候補者を定むるには町会議員、各隣保班長より3名宛集合の上推薦亦選挙をなして以を定む

1.各班長は各班共に班内にて推薦亦は選挙をなして以て定む

1.右之結果

   部落会長  横田健雄
    代理    森田亀一
     各班長
  第一  藤永勘七
  第二  山永正雄
  第三  松田喜一
  第四  吉富尚任
  第五  清原哲雄★★
  第六  山本藤蔵
  第七  友田一二★★★
  第八  大浦信一
    右当選す
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

★ 横田健雄さんはこの年部落会長に選出されましたが、昭和18年には佐々町警防団第5分団の分団長になられています。現在でいえば町内会長と消防団の分団長を兼務されていたことになります。若い男は戦争に駆り出されて部落にはほとんど残っていなかったからでしょう。

★★ 清原哲雄さんは真宗のお寺「正福寺」(下の写真)の住職をされていました。この年5班の班長になられましたが、昭和17年には警防団の分団長もされています。軍隊にも行かれたこともあるそうですから、当時の人は一人で何役も務められたのですね。


★★★ 友田一二さんは大正年間に口石で鍛冶屋をしながら役員にもなられた友田樫太郎さんの二男で、小学校の先生になられ口石小学校の校長までなられました。口石小学校の校長室には歴代の校長先生の写真が掲げられています。下の写真がそれです。



2010年10月18日月曜日

昭和18年の会計記録(下)配給係判明

 この年の収入としては区民127名の部落費は月額70銭で毎月集金しています。年間8円40銭になります。寄留人は3名だけで半額の年間4円20銭を12月に一括して納めています。その他は出不足金が120円ばかりと消防用の貯水池を作る時町役場から砂、バラス代として115円、財産組合からの補助金50円などです。収入合計は1350円ばかりです。

 支出は12月20日の役員報酬が主なもので、
   部落会長給 永石浅吉 300円
   代理会計給 森田亀一 100円
   配給世話給 山永朝一  60円
 議事録では分からなかった配給係の名前が分かりました。明治4年に讃岐の金比羅さん参りに出かけた3人のうちのひとり山永幸吉さんの孫に当たられる朝一さんでした。下写真の家は大工さんだった山永朝一さんが自分で建てられた自宅です。屋根の瓦はその後取り換えられましたが、家そのものは当時のままのものだそうです。
   班長   25円 8名分 200円
 他には 在郷軍人補助金  19円
       青年会補助金   10円
       婦人会補助金   12円

 7月5日 常会の時役場員 ビール2本代 1円80銭とあるので、この頃のビール代は1本90銭ということになります。
 酒1升の値段は7月は3円50銭、9月3円25銭、10月5円と値上がりしています。

 9月には伝染病が流行して3度消毒をしています。ところがこの時の支出内容が焼酎5合、2合、3合とその金額が書いてあります。消毒をした人に焼酎をふるまったのかとも思ったけどお年寄りに聞いたら、その頃消毒薬などなかったのだから焼酎で消毒したのだろうという話でした。 10月13日には清潔検査(どんな事をしたのでしょうか)があっています。酒1升を支出しています。伝染病も一段落したのでしょう。検査に来た役人に酒をふるまったのではないでしょうか。

★ この年4個目の防火用水池が作られました。最近になって作られたものもあり、現在口石には10か所の防火水槽が整備されています、1ケ所の水量は40トンです。以前はコンクリート水槽の周りを金網で囲っていました。この中で金魚を飼っている人もいました。上中講の防火用水池は道路拡張工事のため別の場所に移転しましたが、上講と下講のものは池にコンクリートの蓋がされましたがそのままの場所にあります。年末にはそれぞれの地権者に1坪あたり1円の代金が支払われています。
       (上講12坪の防火水槽)

   (下講9坪の防火水槽、横は現消防分団長の家)
     

2010年10月11日月曜日

昭和18年の会計記録(上)区割取立帳

 今年3月、 口石の公民館建設が完成して引っ越し作業をした時、それぞれの所へ品物を運び入れて、一段落した時古い風呂敷に包まれた木の箱がなぜか1個だけポツンと取り残されていました。その中から大正2年1月起こしの金銭出納帳が出てきた事はすでに述べました。これは昭和8年までの記録で終わっています。

 上写真の帳面も気付きはしたものの「区割取り立帳」2~3枚めくったけど町内会費の集金帳と思いそれ以上は吟味しませんでした。最近になって読んでみたら、昭和18年から昭和32年までの金銭出納帳があり、いわゆる戦時中(大東亜戦争)のことが分かる内容もあり資料として価値あるものと思うようになりました。これからは議事録とこの金銭出納帳の具体的な支出の内容を照らし合わせながら記述していく事にします。


 
 表紙をめくったら口石部落……明治初期は(ふれ)、その後(く)と呼び戦時中に部落(ぶらく)となり、昭和50年代になり町内会と呼ぶようになりました。……127戸の名前が班長を先頭に書き並べてあります。今生存されている人は皆無です。昭和50年に移り住んだ私がお会いした方は10名ほどです。

 昭和18年1月30日、1月の127戸分の区費88円90銭(1戸70銭)で始まっています。本来なら、1万円以上の繰越金があるはずなのですが、この年1月7日の初講で1戸当たり100円宛払い戻して、残金を財産組合を作りここへ移して、部落の会計とは切り離しています。これまで行っていた金貸し業務もやめてしまったようです。
 この記録で不思議な事があります。口石の班は最近になって新しく宅地造成されて3班増えました。それまではずっと8班のはずなのに、昭和17年、18年に12班あります。議事録では18年の8人の班長は評議員を兼務するとなっています。したがって年間の班長手当は25円です。12人いる班長は何だったのでしょうか。1名だけ両方の班長をしている人がいます。全体として8人の班長は年長者が多いようで、12人の班長は比較的若い人みたいです。戦時中の向こう三軒両隣と関係があるのでしょうか。議事録にある「防空郡」と関係があったのでしょうか。長老の方に尋ねましたが分かりませんでした。

 ネットで調べてみたら分かってきました。この記録帳の表紙に「隣保班長月末集金」とあるので隣保班を調べたら戦時中にあった組織で部落、町内会の下部組織で10戸ぐらいで編成されていたようです。隣組の組織で助け合ったり防空防火にあたり時にはお互いの監視もしたりしていたそうです。ですから今までの班とは別に口石でも作られていたのです。戦後はなくなったのですが、現在でも「リンポハン」と言う人もいます。

 





2010年10月4日月曜日

昭和18年の議事録(防火水池、区有金払い戻し)

 昭和18年1月7日 初集会をなす

      協議事項

1.計算報告 承認を得

1.金比羅神社の石燈を修繕をなす事 

1.右同し参道役員立会の上予算を立てたる上総会にかける事

1.龍界の道も右に同じく

   右2口は役員立会の上なす事

1.区の出不足は一日2円と定む

     女は7合となす

1.評議員を8名となし評議員兼隣保班長任務をなさしむる事を定む

  隣保班長総改選をなす左之通当選す

 第一班   森田喜一    46点

      副 森田祖助     9点

 第二班   藤永三代四郎 31点

      副 山永正雄    26点

 第三班   松田喜一    27点

      副 森田吉三郎   26点

 第四班   藤永半兵衛   24点

      副 佐伯寅市    24点

 第五班   山下茂夫    39点

      副 清原哲雄    18点

 第六班   志方重太郎   24点

      副 山本藤蔵    24点

 第七班   真藤八郎    27点

      副 荒木精一    24点

 第八班   大浦正雄    29点

      副 横田種夫    20点

1.義務修繕には寄留者と言え共全部出働を受ける事

但し区民□し公務員に限り出働しあたわざる者出不足として年に金3円を徴収す

1.警防団に補助金として金100円を補給す但し18年度より支給をなす事

1.警戒の際非常の場合以外、区全般勤務に付く事

1.家庭防空郡用バケツ代金区より支給する事を定む

1.下中講に貯水用を構築する事 

    但し構築人夫は其の講にてなす事

1.家庭防空郡長は男子選任する事を定む

1.区有金を1戸当たり金100円宛分配する事を定む 但し17年度満一ケ年内に区入りなしたる者に区入り金丈ケ分配をなし亦17年度内に区を別れたる者には半額を分配する事を定む ★★

1.残り区有金を財産組合を作りて分離する事を定
1.組合の方に組合長1名、会計1名、理事2名置く事を定む
1.一ケ年に各役員の手当を定む
1.組合長、会計各10円宛
1.理事 各5円宛支給する事を定む
1.選定の結果左の通り議決す
  組合長    力竹増太郎
  会計     池田 新
  理事     志方重太郎
  理事     横田安之助
1.財産組合の金より区の費用に年に50円丈け寄附する事を定む
1.区費は毎月一戸当たり金70銭宛徴収する事を定む
右18年1月7日の初集会の協議事項なり

  1月20日区集会協議事項
1.大平口の雑木を売るに決定す 但し1月22日入札なさしむる事定む
 右売買高 一金141円50銭也
内訳 1号30円 2号61円50銭 3号50円也

   4月8日評議員会を開き協議事項

1.小川益一氏義務修繕の出働を官公吏員と見なし出働せぬ用相談有りし故之に応ず

1.出征亦入隊の時餞別を持て言に上り時区の人には一切酒肴を出さざる事亦受けざる事と定む

1.義務修繕に出働せざる者左の通り

    小川益一

    清原哲雄

    友田 新

    友田一三(一二の間違いでしょう)


   7月2日評議員会を開く

1.一般徴用者に対し区と親は祈願祭のみ其の都度なし餞別は廃止する事

1.隣保班内の離別を発□餞別改てなす事

1.見送りも区一般の見送りを廃止 隣保班内にてなす事 但し部落会長は代任にて見送りなす事

  右評議員会に議決す


    12月20日評議員会にて決定事項

1.区民にて他に出働をなしたる者に対して区割りは半額と定む4円20銭となす

       右協議決定す

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前回は昭和16年の議事録を取り上げました。本来であれば今回は昭和17年の分の紹介をするところですが、この年だけは全く記録がありません。紛失してもいません。16年の最終行からそのページ内で2行開けて、18年の記録が始まっています。16年にはいろんなごたごたもありました。ノートの引き継ぎがうまくいかなかったのではないでしょうか。謎の一年という事です。

★ 下中講の人たちが作った防火用水池の現在の写真です。

 今は、写真のようにコンクリートで覆われて貯水槽になっていますが、少し前まではため池になっていて金網で囲われていました。昭和18年に作られたものに違いありません。土地は、横田安之助さんが2坪、山口市三さんが7坪7.5合提供されています。この頃の土地借地代金は1坪あたり1円で年末に部落の会計から支払われています。 これで、口石の念仏講4講にそれぞれ1つづつ貯水池を持つこととなりました。

★★ この年区有金を1戸当たり100円払い戻しています。区の金を年利1割前後で区民に貸し付けていました。永年の間に相当な金額になっていました。当時125戸前後ありましたから1万円以上の大金です。理由が書いてないのでなぜそんな事をしたのか分かりませんが、その後は部落(この戦時中は区の事を「部落」と呼んでいます)で、金貸し業務をやっていないようですから、トラブルがあって金貸しをやめたのか、お上からのお達しでやめたのかは分かりません。

 区有金の分配は1月11日に行われています。その時警察官が立ち会っています。そして昼飯とラムネを出しています。その金額が17円となっています。酒を出すわけにはいかなかったからでしょう。このように、この頃の詳しい会計帳簿が見つかりましたので、次回から具体的なことを書くことにします。




2010年9月27日月曜日

金比羅境内心中事件

 尋常小学校6年を終え、4月からは高等科に行く杉作少年は春休みで自宅にひとりいました。昼を少し過ぎたころ、突然大音響とともに地響きが伝わってきたのに驚きすぐに家から飛び出しました。方角は良くわかり、金比羅さんの階段を駆け上がっていきました。頂上の広場で目にしたのは、異様な光景でした。少年は何をすることも出来ずに、ただぼうぜんと立ち尽くし、見つめているだけでした。

 (現在の金比羅境内広場、事件後桜は3本ほど切り倒されました)
 
 着物を着たうら若い女性が血まみれになって、腹の辺を手で押さえているのですが、その手から、はらわたがはみ出していました。少し離れたところで、顔見知りの青年が桜の木に自分の帯を掛けて首を吊って自殺をしようとしていました。着物の腹の辺は煙を出してくすぶっていました。現在もそうですが、金比羅さんの境内は岩肌が目に付いて桜の木などを植えてもなかなか成長が思わしくなく、小さいものでした。ですから首を吊っていても足は地に付いていました。さらに帯は首の後ろ側に掛っていました。ちょうどもたれかかっているような感じで目をつむっていました。周りには大人たちはまだ誰も登ってきていませんでした。大音響からすればかなり時間がたっていたので、喉の方に帯が掛かっていれば死んでいただろうなと子供心に思いました。そして、 女は必死にもがき苦しみながら、忠二がした忠二がしたと少年に言い聞かせるように何度もわめいていました。    

 しばらく立ちすくんでいたら、爆発音に驚いた大人たちが続々と登ってきました。年寄りの一人がその場を取り仕切り始めて、若いものに戸板を持ってこさせ、血まみれの女をその戸板に乗せて若い者が抱え急坂の階段を苦労しながら下りて行きました。その時には近くの開業医の先生も登ってきていて、その病院へ連れて行こうとしたのでしょう。少年も戸板から遅れないように付いて下って行きました。下ったら田んぼのあぜ道を通り、順手川にかかる小さな橋を渡り公会堂付近に来た時、女はがくんと首が折れて息絶えました。

(広場から下る急な階段は当時のままのものです)

 その間、少年は一言もしゃべる事はありませんでした。その時、何がどうだったのか少年にはなかなか理解できない事ばかりでした。

 その後、大人たちはこの話で持ちきりになり、聞き耳を立てていたので少年にも事情がだんだんと分かってきました。女は小浦の女郎屋「清川」の女郎お浜さんということ、男は何度か通い馴染みになっていたこと、少し早いけど、男が花見をしようと誘っていたこと、境内広場に穴を掘ってダイナマイトを埋め込み、その上に茣蓙を引いて酒と弁当を用意して、無理心中を図ったという事でした。男は今生の別れと嫌がる女を無理やり押さえつけ上に乗って目的を遂げ、ダイナマイトを爆発させた。その時女の帯は太鼓帯だったので、背中の方は損傷は少なく、即死ではなかったことも分かりました。

 この事件は昭和16年の3月ですから、この年の12月8日が大東亜戦争が始まった時です。当時を知る人の話では、ダイナマイトを使った自殺があちこちであったそうです。世の中の動きが戦争へと突き進んでいるときで、若者には閉塞感があったのではないでしょうか。


(御断り)実際の事件を目撃者の少年の視点で書きました。人名につきましては、すべて仮名としました。

2010年9月20日月曜日

昭和16年の議事録(臨時総会、警防団、力竹医院)

昭和16年1月11日(初集会

    協議事項

1.藤永新平氏次男十三郎氏分家村入の相談承認を受く
1.金比羅様の枯松のため其の代りとして楠を各隣保班にて一本宛二月末日迄に植える事に決定
1.触役増員並に増俸をとの意見有之も今迄の様に保留す
1.区有金壱万円を維持する為区費の徴達法の研究を望するも良き案もないため保留
1.警防団の出初式が七日に有るため期定日の七日を延期す
    役員改選
  評議員  松田幸四郎氏(退)
  評議員  大浦 信市氏(退)
 新任評議員 森田亀一氏 28点
  々      永石浅吉氏 25点
     次点  末永勇七氏 22点
     々   荒木精一氏 15点
右の通り一般の承認を受く
 区長並に区長代理改選の結果
   横田安之助  区長
   大浦信市  区長代理に当選したるも事由により承認なきため今迄通り区長並に区長代理も本年度(一年)と相談に相成るため区の円満のため区長並に代理も承認す


  7月13日 於 公会堂

    決議事項
1.議長 力竹増太郎氏★★
1.区長並に代理の辞任届を承認す
1.役員の総て再選を防けず
1.区長並に区長代理当選者は相当の理由あるとも総会に於て其の理由を認めざる限り異議申立(承認)をなすべからざる事
1.各給料を左記の通り改正す★★★
  1.区長給 300円(改正前60円+10円)
  2.代理給 100円(25円)
  3.配給係  60円
  4.評議員  20円(8円)
  6.触役給  10円(4円)
1.区長並に代理改選の結果左記の通り
  1.区長  永石浅吉 32票
    次点  森田亀一 10票
  2.代理  森田亀一 15票
    次点  横田安之助14票
  3.評議員 退職者 永石浅吉
          〃    森田亀一
         当選者  末永勇七
          〃    大浦正雄
1.各隣保班長は7月分より12月迄は各戸(寄留人を含む)金壱円也を徴収の事
1.隣保班長は一戸10銭宛を毎月給料日として徴収する事を得


    8月27日
 評議員隣保班長集会協議事項
1.区民の出不足一日に金2円と定む
1.女は其の八掛と定む
1.寄留人に対して道路受護之為村道県道修繕の時は出動を相談する事 但し出不足取らざる事
右決議す


    9月27日

1.区の差合は若し一人以上死去して葬式を一緒にする共差合を員数に対し出す事を評議員会に於て決議す★★★★


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


★大正年間からずっと1月7日に初集会をするのが口石の習わしでした。この年は警防団の出初式が1月7日に行われたために、集会は1月11日に延期して行われました、この年は何か波乱含みの予感がします。
警防団は戦後は消防団となったので、口石の分団長は三代でおしまいです。初代の分団長の時昭和14年に作られたであろう団旗には「佐々村」とあります。佐々町となったのは昭和16年です。初代と3代は議事録に登場してきますが、2代は正福寺の住職をされた人です。
現在の消防分団詰所と消防自動車の倉庫(上写真)は当時の場所から移転新築されています。

★★ 1月の初集会で、選挙により選出された区長、区長代理は辞退したため、前年の人が再度区長・代理を行う事でおさまっていましたが、7月になって2人から辞任届が出たため、臨時総会が開かれました。
 その時の議長が力竹増太郎さん(下写真は自宅と医院)。大物を議長に据えて難局を打開しようとしたようです。力竹増太郎さんは隣部落小浦の生まれですが、今の熊本大学の医学部を卒業されて、明治42年に口石で開業されています。


 下写真は現在の力竹医院で、3代目の輝彦先生が診察をされています。左側が入院病棟になっています。5年前の冬、風邪をこじらせた私は、2泊3日の入院で完全に回復した事がありました。



★★★臨時総会は順調に進んだ模様で、役員の成り手がいない事や、当時はインフレもひどかったのではないでしょうか、大幅な役員報酬の値上げが決定されています。その中で「配給係」が新設されて、評議員の3倍の手当で、区長、代理に次ぐNO.3の座を占めています。酒の配給などもあり、大事な役回りだったようですが、誰がなったのかわからないのが残念です。

★★★★「差合」というのは念仏講の「差し合わせ」のことで、現在の香典と同じものです。昭和50年代に私が加入した時300円でした。あまり実情に合っていなかったので、これとは別に香典を出す習わしになっていました。現在念仏講自体は残っていますが、「差し合わせ」は集めることはありません。


2010年9月13日月曜日

昭和15年の議事録(区費値上げ2円に)

 昭和15年1月7日 初集会
     協議事項
 計算報告区民一同の承認を受く
 松植の日取り適当の時期を見て役人一任
 山焼後の日限は2月28日限り
 金比羅様及び彼岸の御酒は役人に一任
 区費は現在は1円50銭なるも本年より2円と決定
 区民の1ケ年の出不足3円
 寄留者の1ケ年分負担3円
 初集会の出不足 1円
 区の出不足 男1円50銭 女1円20銭
     役員改選
 区長   横田健雄氏22
 代理及会計 池田 新氏33
 評議員    森田源八氏25
  々      松田幸四郎氏留任
  々      志方重太郎氏22
  々      大浦信一氏30
 区長次点大浦信市氏、協議員次点大浦正雄氏、山口市三氏、森田喜市氏
右の通り一般の承認を得候也
区長の任期も一期にて再選無こと決定
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★この年評議員になられた大浦信一さん宅の井戸の写真を下に添付します。現在は使われていませんが、流し場には大きくて平たい石が並べられていて炊事、洗濯の他にも農作業など使い勝手が良かっただろうと思われます。すぐ横の母屋は改築されていて、当時の面影はありませんが、その横のシノヤ(農作業用の倉庫等)は瓦ぶきの建物が信一さんの当時のものがそのまま残っていますが、現在住んでおられる孫の国昭さんから写真を出すのを遠慮するように言われたので、井戸だけにしました。  






2010年9月6日月曜日

昭和14年の議事録(古堂の観音様)

  昭和14年1月7日 初集会
    協議事項
 区貸付金利子利下げ
 借金の1割以上元金払い込みたる者に対しては年8分利子
 利子のみ払い込み者に対しては9分の利子
 右は毎年12月20日取り立て定日に限る
 それより以後に払い込みの者は1割の利子
1.決算報告議案の件
1.越木岩松売却の件
1.古堂御観音様春の彼岸御講子施行の件
1.植松処分の件

 福田伊之助氏これまで寄留者にして有りたるも本年より区入りの相談あり、承認を得
    役員改選の件
  上中 松田幸四郎氏 新任  森田亀一氏 次点
  下   池田 新氏 新任  横田十三郎氏 次点
  役員給増俸改正の件
 区長年手当50円なり所10円増額して60円と定め外に交際費10円を給す
 区長代理兼会計年手当15円たりし所25円
 評議員給6円なりし所8円宛
 触れ役給1円50銭なりし所4円宛
右の通り承認を得候也
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★ 古堂の観音様の現在の写真です。



 金比羅さんにほどちかい小高い斜面に祠があります。この御堂は戦後最初に町長になられた藤永さんの一族でお祭りをされていると聞いています。一時周囲が荒れていた時もありますが、最近は草払いも定期的に行われよく整備されています。 お巡りさんの一行も立ち寄り信仰の対象となっています。
 お堂の裏側は大きな岩場になっています。戦時中には防空壕がここに掘られました。現在もそのままの状態で残っています。この壕はL字型に掘られていて全長20メートルほどですが、いわゆる防空壕と呼ばれるものは行き詰まりになっていますが、ここは通り抜けられるようになっているのが特徴的です。佐々町は佐世保市には近いところですが、終戦まで空襲を受けた事がなく悲惨な話は聞く事がありません。この防空壕も実際には使われなかったそうです。

 最近の子供たちは、自然の中で遊ぶことが少なくなりましたが、30年ほど前うちの子供が小学生のころは男の子供の格好の遊び場になっていました。近くの山道は両手で掴みながらでないと登れないような急こう配の坂道があり、「悪魔の坂道」と呼んでいました。測ってはいませんが、45度以上の坂ではないでしょうか。その上には、秋には栗の実が今も実っているはずです。





2010年8月30日月曜日

昭和13年の議事録(大正の金銭出納帳発見)

昭和13年1月7日
      協議事項
 区貸付金の利子は年1割2分とす
  但し各年取り立て定日12月20日当日出金者に限り年1割とす

 区長      森田喜市氏
 代理及会計 永石浅吉氏(善吾さんの祖父)★★
 評議員 上  藤永 新氏
     下中  末永惣太郎氏
       下  大浦新市氏
          松田力太郎氏
昭和13年7月8日
      村祈祷施行の境
 山口市造氏より家内の養母を市造氏一家同等に存も□区割右相談あり□□故承諾す

   昭和13年10月2日
伝染病死亡者は死亡後一週間以上経過せざれば葬式は出来ざる事に区の総会の決議に依りて之に定む★★★

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★ 口石区の「金銭出入帳 口石触」大正2年1月起 という半紙に墨書の記録が偶然なことから、私の手元に入りました。下の写真がその表紙です。外れかかっていますが、表紙には厚紙(和紙)を使っています。   内容は数字を漢字で筆で縦書きで書かれています。最上桁は万の位で、最下位の桁は「厘(りん)」です。1厘は10分の1銭ですが、大正時代のこの頃は最低の貨幣は5厘が使われていたようです。野球選手の打率をいう場合は今でもその下の位まで、何割何分何厘何毛と使われる事がありますね。

 この当時、昭和8年1月の記録では、区有金総額6492円59銭で内訳は貸付証書面4062円(約63%)で残りが銀行や信用組合への預金や現金です。
 年間の歳入金は753円42銭
  同  歳出金は454円82銭(区長手当他)
ですから、区の行事の為に支出するというよりは区民の為の金融機関=金貸しが主だったといえます。利息がいくらかはっきりしなかったけど、この年の議事録で年1割2分とすることがはっきりしました。もっとも、12月20日の定日に払い込めば利子を1割に負けるというのはなかなか良いアイデアですね。



★★ 下の写真は、この年区長代理兼会計に当選された永石浅吉さんの自宅(当時とあまり変わっていない)と前田です。青々と稲がしげるこの田んぼはその後、土地改良事業が行われて、まとめて広々となりました、口石では1枚の田んぼで一番広くて、6反(1800坪)あります。今年も豊作が期待されます。 



やはり大豊作でした



★★★ この年伝染病が流行ったのでしょうね。それにしても伝染病の死者の葬式は一週間以上出せないというのは、どんな意味があったのでしょうか。しかもその事を、町内の総会で決議をして決めたと言うのですからますますわからなくなります。厚生省や保健所はどうしていたのでしょうか、田舎では機能していなかったのでしょうか。



2010年8月23日月曜日

昭和12年の議事録(町内会費は米5升)

  昭和12年1月7日初寄協議事項
1.決算報告一同承認を受く
1.部落常会の件
1.1ケ年区 出夫の件(2円50銭)と定む
1.区割り変更の件(米取り立てをやめ)金1円50銭と定む
1.森の木里道改修 3月1日より
1.青年補助金10円(部落常会の件承認)
1.野坂 果樹園変換にて造林する事
1.評議改選 松田力太郎、上、大浦正雄★★
   右の通り承認候也

    12年4月14日
1.横田安之助氏村会議員当選に付き
      区長    志方重太郎氏
      区長代理 松田幸四郎氏
 区総会の結果承認を受けたり
1.前区長退職慰労金として
   15円也、礼金なす会計より
   10円  区長準備金より


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★ 現在の町内会費に相当する「区割り米:5升」だったものを、この年から現金1円50銭と変更になりました。実質的には10銭の値上げになります。当時の物価として米5升の金額はおよそ1円50銭という事でしょう。
下の写真は今年3月の公民館新築移転に伴う引っ越しで見つかった資料の中で、半紙を縦半分に折り、昭和11年から16年までの分21冊です。

 内容としては、支出帳、区割取立帳は上と下で2冊、他に出不足取立帳、地料取立帳などです。下の写真は昭和11年の区割り取り立て帳の一部です。大部分は米5升となっていますが、大工さん、商店主、お医者さんなどは現金1円40銭となっています。


 なぜか昭和12年の分は見つかりませんでしたが、昭和13年以降の区割り金は1円50銭になっています。

★★ この年初めて評議員になられた大浦正雄さんからは口石の昔の事をいろいろと多くの事を話して聞かせてもらいました。今になってみればその時、メモでもよいので記録をしておけばよかったとつくづく思います。
 平成9年に91歳で亡くなられた時、お葬式に行きましたが、弔辞の中で曾々孫(ヤシャマゴともいう)が数人いて孫・曾孫が50人以上との話が印象的でした。
 大浦正雄さんが住んでおられた家の前庭に古い井戸と「黒髪大明神」とある石の祠が祭ってあります。下の写真のように現在は電動ポンプと配管により蛇口をひねれば水が出るようになっています。春先のシロウオの季節にはこの水で元気よくシロウオが大きな樽の中を泳いでいます。

2010年8月16日月曜日

昭和11年の議事録(木場川に水車・精米所)

   昭和11年1月7日初集会協議事項

1.決算報告一同承認を受く

1.半坂雑木山伐採の件

1.野坂松植の件フケギリ役場委任受けてなす

1.森の木道路改修、巾広め一同承認

1.役員改選

     区長   横田安之助

     代理   志方重太郎

     会計   森田 祖助

  新任 評議員 山本 藤蔵
   〃   〃  森田 喜市
1.区入り分家相談 熊本朝雄
1.区入り 山下茂男、山口市三
   閉会

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★ この年、評議員になられた山本藤蔵さんは当時口石の「龍開(りゅうがい)」(現在山本邦夫さん宅)の所で木場川に水車を回して、精米所をされていたそうです。そこは現在川は護岸がきれいに整備されていて下の写真のようになっています。 
 その後、国道沿いに出られて、精米所をされました。現在も米穀店(下写真)をお孫さんの代になって営業されていますが、精米機や油絞りの機械は今はありません。


2010年8月9日月曜日

昭和10年の議事録(後の町長が評議員に)

  昭和10年1月7日初集会協議

1.決算報告一同承認を受く

1.消防用水溜を4か所設置する

1.里道、バラス敷する事

1.区長給40円也を50円となす

1.金比羅神社境内拡張の件  以上決議

1.評議員改選
   上 藤永源市君  下 横田十三郎氏

1.杉下払は希望者に一任

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★ この年初めて藤永源市さんが評議員に当選されていますが、区長さんよりは若かった(4歳年少)せいで、君付けされて記入されています。 
 その後、藤永源市さんは佐々町郷土史によると昭和22年戦後初めての普通選挙で、新人5人の争いの中、激戦を制して佐々町長に当選されました。途中で辞職され、在任期間は非常に短かったそうです(4か月)。

 

 上の写真は源市さん夫妻のお墓です。戒名は下の写真のように「大源院殿榮覺壽仙居士」とあり、昔のお殿様のみたいに院殿号が付いています。墓石は黒島御影石の立派なものです。

2010年8月2日月曜日

昭和9年の議事録(口石1里塚の大木)

   昭和9年1月7日初総会協議

1.決算報告一同承認を受く

1.念仏講の件 寄留人には誓約書を入れさせ区の承認受けてより念仏講に加入を許す

1.婦人会補助の件 これまで金10円を金12円とす

1.区長及代理、会計、評議員改選

   区長  横田安之助

   代理  志方重太郎氏★★

   会計  森田 亀一氏(数博さんの祖父)★

   評議員 上 宮本新三郎氏★★ 下 大浦信一

        下中 松野寅一氏  中上 松田幸四郎

1.触役給の件 これまで一人半年に付、金1円也を上1円50銭、下1円25銭と改む

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★ 下の写真は森田亀一さん宅入り口にある榎(えのき)の大木です。この木は平戸街道(平戸往還ともいう)の一里塚と言われています。平戸松浦公が参勤交代の時田平の桟橋から出発して、江迎ー佐々ー佐世保ー早岐ー川棚ー彼杵へと進み、彼杵から小倉までは長崎街道を行かれたそうです。この街道沿いにはおよそ4キロごとに一里塚の木が植えられていたそうです。彼杵までの間には13か所に大木があった事が確認されていますが、現在江戸時代の原木がそのまま残っているのは、この口石一里塚の榎だけです。田平から数えて5番目にあたりますから、およそ20キロという事になります。

        (平戸街道の一里塚の大木)

★★ 自分以外の人の氏名には「氏」を付けて書かれているので、この筆の筆跡は区長の横田安之助さんのものだと思われます。しかし、大浦信一、松田幸四郎さんのところにも「氏」が付いていないので、もしかしたら最後の松田幸四郎さんの筆跡かもしれません。この松田さんは達筆との評判で石碑の揮毫もされていますから。

2010年7月26日月曜日

昭和8年の議事録(吉永力三郎さん再び)

   昭和8年1月7日初総会協議決定

1.決算報告区民一同承認通過

1.須崎里道延長に1戸1人宛の加勢承認

1.山入の後の雑木分配方協議人に委任す その見分時半坂焼松を見て吉永力三郎氏に落札金2円60銭にて定むるか延期す

1.評議員改選にて 大浦信一 尾崎九蔵

1.口石区内の里道に砂利石役場に請求を区長に頼む

右之通り承認を受たり

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★ 吉永力三郎さんに関しては平成22年2月22日付の本ブログ、伝説の力持ちの項ですでに紹介していますが、平成元年に天寿を全うされ93歳で亡くなられて下の写真の墓に入っておられます。焼松とはどんなものかわかりませんが、木挽きだった吉永力三郎さんが落札して板にしたものと思われます。会計記録では3月14日付けで2円60銭の入金が「野坂焼松代」としてあります。

 吉永さんは後には江迎町潜竜の炭坑に移られ、労働組合の組合長までされたそうです。墓地は生まれ育った口石の平田にあります。

                   (吉永家の墓)

2010年7月19日月曜日

昭和7年の議事録(婦人会に補助金出る)

   昭和7年1月7日 初集会協議決定
1.決算報告区民一同承認通過
1.婦人会に補助の承認あり
1.寄留人に対する件 貸家主より家賃月極めを一時受け取りにてその家一代を許すことになる但し10円以上なるも10円とす但し家建てをなして寄留の場合は10円とす
1.保安会長は区長兼任となる
1.半坂焼払のあとに雑林(造林?)すること
1.区長年俸40円となす
1.会計新設 会計の給料年15円とす
1.区長及び代理改選 評議員改選 2名
1.区長 横田安之助
1.代理 森田祖助
1.上の部 森田喜市(正之さんの祖父)、中講 志方重太郎 
1.会計 池田 新
右の通り承認を受く
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★ 下の写真はこの年、中講(正確には下中講)の評議員になられた志方重太郎さんの子孫の方が住んでおられる所の井戸と水神様が祭ってある庭です。ここは国道(204号)に面していて、キャードバタ(街道端の事でしょう)と呼ばれていましたが、さすがに最近いう人はいません。江戸時代の平戸街道もこの家の所を鋭角に曲がっています。

2010年7月12日月曜日

昭和6年の議事録(芝居小屋落ち目か)

  昭和6年1月7日協議事項

1.決算報告 区民一同承認得通過

1.線路掃事(掃除のことか)当分せざる事に決定 

1.森田マス、分家区入り相談あり承認を得る

1.高木亀四郎氏、坂本藤三郎氏、寄留の相談あり、一同承認を得る


1.役員改選の結果 下講 横田十三郎氏(隆亮さんの祖父)★★ 中講 末永勇七氏(光男さんの祖父)当選

1.芝居小屋区内金の協議、小屋仲間より相談あり、金20円を10円と定む★★★

1.硝子、焼物捨て場設置する事 但し衛生組合にて

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★ 昭和3年に酒1斗2升貰って春秋区で手入れする契約を結んでいました。ところが、この年「線路掃除を当分せざる事」とあるのは炭坑が酒を出さなくなったのか、酒の増量を要求したのかどちらかでしょう。

★★ 写真はこの年下講から評議員に当選した横田十三郎さんの所の井戸です。左側に水神様を祭って、昔の庭の一部がきれいに整備されています。現在横田さんの家族は佐々の中心街で割烹旅館、ビジネスホテル、グループホームなどを経営されています。屋敷跡は広く2階建ての集合住宅を4棟(計18戸)建てて貸しておられます。

 口石には古い井戸がかなり残っています。数年前、町内会の文化祭に古井戸の写真を出しました。その時調べて回ったら、57か所に井戸がありました。ほとんどの井戸は現在も現役として活躍しているのに驚かされました。さすがに飲料水として使われているところはありませんが、風呂水や雑用水として使われています。

★★★ 芝居小屋の契約は昭和2年に、向こう2年間は年間20円とし、その後はその折りに決めるとなっていたので、この年20円だったのを10円に変更しています。この「口石劇場」は大正8年にできたのですから、10年を過ぎて、はじめの頃のようには客が入らなくなっていたのかもしれませんね。後になって小浦へ移転したいきさつもありますから。


2010年7月5日月曜日

昭和5年の議事録(旱害や大風に見舞金を出す)

   昭和5年1月7日協議事項
1.決算報告区一同承認を得通過
1.炭坑調査費立て替え金は区協議により、被害者受け入れ金より払い込む事。
  右金は無利子の事
1.森田吉三郎氏区入り相談あり、承認する
1.大浦宣一死去のため出夫女で一人前にする事
1.主婦会組織として貯金する事
1.寄留金は評議員に一任する事
1.区役員改選の結果
       区長       池田 新      
       区長代理    横田安之助
       評議員 新任 山本藤蔵
                 松田幸四郎
             新任 藤永半兵衛
                 大浦信一

     昭和5年7月
1.野坂免岩下草場返納   宮本新三郎
1.近年稀れなる旱害あり、義捐金15円50銭支出する。昭和4年度分 
1.大風被害見舞金として20円支出。昭和5年度分 ★★
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★ この年旱害や大風の被害が出ていますが、口石の場合義捐金や、見舞金を出す方で、貰っていないのが幸せです。昭和30年代から40年代にかけて台風や大水害に長崎県一帯は襲われましたが、口石の場合は少しばかり高台になっていて、浸水の被害は全くありませんでした。当時被害甚大な時にほとんど無傷でした。
 
 その時、旧北松南高校……現在の清峰高校……は川のそばにあったため完全に浸かってしまいました。長崎県は再起不能と思ったのでしょう、高段(現在の千本公園一帯)を買収して新しい校舎を建設する事にしました。ところが地元は駅から遠いという事で反対して、元の場所に新築して、堤防も立派なものが作られ、その後決壊する事もなく順調に推移しています。県が買収した土地はその後佐々町のものとなり、今はグラウンドや公園になっています。


 (写真は現在の清峰高校の玄関です。つつじの植え込みの中に平成17年の夏に初めて野球部が甲子園出場したときの記念碑が見えます)

 昭和5年の会計記録では、5月6日に旱害義捐金補助として25円支出して、10円は立て替えとあります。また同年の12月20日には「旱害義捐金、区長以下役員にて6円、力竹医院3円、湯浅50銭(会計立て替え支払い)」と詳しく書いてあり、9円50銭の入金が記されています。議事録の義捐金15円50銭とある中途半端な金額は、区の会計から支出し、役員と病院、商店主からのカンパで9円50銭、合わせて25円を義捐金として出されていますが、ややこしい割には出した相手が全く分かりません。

★★ 次の大風の見舞金については何も記録がありませんので、区の会計からは出していないものと思われますが、なぜ議事録に書かれているのか不思議な気がします。

 旱害義捐金は昭和4年度分とあり、大風見舞金は昭和5年度分と議事録に明記されていますが、会計の記録には昭和5年の分に旱害義捐金だけしか記入されていません。              
(清峰高校玄関前には昨年春選抜大会で全国優勝した時の記念碑です。昭和42年の大水害で水浸しになった高校が全国優勝を果たすとは夢にも思っていなかったでしょう)


             

2010年6月28日月曜日

昭和4年の議事録(区長村会議員に当選)

    昭和4年1月7日
   初集会事項  
1.計算報告  区一同証任通過を得る(原文のまま)
1.協議員改選は半数を改選して再選をなさざる事
1.当1字不明)改選協議人 大浦信一(国昭さんの祖父) 松田幸四郎(武幸さんの祖父)に定む
1.区集会□□時間
1.出不足の時間遅刻を取る事 1時間遅れた者は金10銭宛を徴収する事
1.納税励行の為の納税組合を確立し、組合長を選立して区中納税を完納せしめる事
1.区割米は村の標準米を基準とし出米の事

4月1日、区長藤永藤七氏、村会議員当選に付き区長を池田新に引譲り、引次ぎは4月5日夜にあり
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 大正9年の総会での区の決定事項の中に、集会の遅刻者に対する罰則が細かに記されていたのは、すでに書きましたが、会計帳簿では罰金(罰米ではあるが)をとった記録はありません。当時の人々は時間をよく守っていたのでしょうか。
 戦後はその反動で遅刻する人が多くなったのでしょうか。私が口石に転居した昭和50年ごろは「口石時間」といって30分ぐらい遅れないと集まらないことがたびたびありました。

 この年の議事録には集会に関してではなく、作業に関して遅刻者に罰金を科すことを決めています。実際にはどのくらい罰金をとったのでしょうか、当時は男がいる家族のところは女が出た場合は差額の出不足を出さなければならない事になっていました。集会には出て来ても、作業になると遅れてくる者がいて不公平だという人がいてこのような1時間に付き10銭の罰金となったのでしょう。もうこの頃になると、米よりも現金の方が取りやすくなっていたのでしょうか。

 その後に、区割米(現在の町内会費のこと)は村の標準米とする事と決められているのは、売り物にならないようなクズ米を出す人がいたからでしょう。
 写真はこの年区長から村会議員に当選した、藤永藤七さんが眠っているお墓です。赤色のアフリカ御影石の立派なものです。長男の勝之さん(藤永地建の創業者で社長から会長をされた)が平成元年に建てられました。

2010年6月21日月曜日

寄留人(きりゅうじん)について

 口石に家を新築して引っ越してきた当所、「寄留人」という言葉の響きに違和感を何かしら感じていました。家内は自分たちが言われているものと勘違いしていました。学生時代の熊本の下宿の近辺では、学生のことを「書生」さんと呼ぶお年寄りや子供たちがいました。その書生という言葉の響きには学生を大切に扱っている温かみを感じました。しかし、寄留人とか宿借りさんという呼び方にはよそ者、すぐ出ていく間借り人という差別語的な感じがしました。

 町内会長になって口石町内会の引き継ぎ書類の中に、権利証や契約書類を綴じたものがありました。詳しくは見ていなかったので、先日最後までめくっていったら、「寄留証綴」というのが見つかりました。


 上の写真が表紙で、鉄のホッチキスで留められていたところが錆付いています。

 次の写真は最初のもので、明治40年に達筆な毛筆の候文で書かれたものです。全部で14枚の証文が残っています。

 これは山永家に寄留していた竹内竹蔵さんが書かれたものです。竹内隆美さん宅のお墓に入っておられるとのことで、親戚には間違いないけど直系ではなさそうだとの話で今となってはもうわからないとのことでした。

 上の写真が最後に書かれた昭和2年の「寄留証」です。昭和2年の議事録で尾崎家に寄留する産婆さんの寄留金を半額とする旨の記録があるのでこの人に一致します。
 寄留人は寄留金を区にも払わなければなりません。昭和2年の会計記録によると寄留8名分30円となていて、1名は半額とする記事もあるので、寄留金は1人あて4円となります。一般の区民の区割(今でいう町内会費) は米で1人当たり5升、76人分98円80銭とあります。すると1人当たり1円30銭となります。米5升の金額も1円30銭ということになります。何か釈然としないものがありますが、寄留人が区民よりも3倍以上の金額を出していた事になります。家主には家賃を払っていたでしょうし、身元引受人との連名で「区の規約を守り、違反したときはいかような処分をされようとかまいません」と候文の証文まで入れさせられていました。
 今思えばかなりの差別的扱いではないでしょうか。戦前はこんなことが当たり前だったのかもしれませんね。その反動か、私が移り住んだ昭和50年ごろは、借家住まいの人は出不足金は家持ちの人の半額と決められていました。その後変更になり、現在は一律に同じ金額になっています。
 口石は江戸時代の武士階級の人もいますが少なく、塩田作りのため四国は阿波の国からとか、忠臣蔵でおなじみの赤穂から移住の人がやって来たとの言い伝えがありますが、純然たる稲作農家中心の集落でした。最近は少し変わって、佐世保市のベッドタウンとして農地を宅地化して、移り住む人が増えてきたところです。